明智秀満 (63)
「信長公記」
『家康公 駿河口より御乱入の事
家康公、穴山玄蕃を案内者として召し列れ、駿河河内口より甲斐国文殊堂の麓、市川ロヘ御乱入。』
信忠勢の信濃乱入を受けて家康は浜松城を出立し、天正10年(1582年)2月18日には掛川城に入った。2月20日には依田信蕃が籠る田中城を包囲したが、先を急ぐ家康は抑えの兵を置くと駿府城に進出した。家康は北条家に先んじて駿河を抑えるため、江尻城の穴山梅雪を調略していたのである。
梅雪は勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資を恨むこと甚だしかった。2月25日には甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐国の領有と武田氏の名跡を継ぐことを条件に家康に内通したのである。梅雪は駿河領内の武田方の城を悉く開城させたが、田中城だけは開城に応じなかった。
一方、出遅れた北条勢も駿河の戸倉城・三枚橋城を落とすと、上野方面に北条氏邦が進出し厩橋城に迫った。
『高遠の城は、三方さがしき山城にて、うしろは尾続きあり。城の麓、西より北へ富士川たぎって流れ、城の拵え、殊に大夫なり。在所へ入口三町ばかりの間、下は大河、上は大山そわつたい、一騎打ち節所の道なり。川下に浅瀬あり。ここを松尾の小笠原掃部大輔案内者にて、夜の間に、森勝蔵、団平八、河尻與兵衛、毛利河内、これらの衆乗り渡し、大手の口川向いへ取り詰め侯。星名弾正飯田の城主にて侯。かの城退出の後、高遠城へ楯籠もる。爰にて城中に火を懸け、御忠節仕るべきの趣、松尾掃部かたまで夜中に申し来なり侯へども、申し上ぐべき隙もなく』
2月28日、勝頼は梅雪の裏切りを知って激怒する。しかし家康が瞬く間に駿河を攻略したと知って、甲斐の新府城まで退却せざるを得なくなった。
勝頼の後詰を期待できなくなった高遠城は絶望的な籠城戦を戦うことになったのである。信忠は地元の僧侶を派遣して、高遠城主・仁科盛信に降伏を勧告したが、僧侶は鼻と耳をそぎ落とされて送り返された。
信長は「高遠城は堅城ゆえ、付城を築け。」と一益に指示したが、信忠はこの策を採らず、3万の兵による力攻めを決意したのである。
3月1日、松尾城主であった降将・小笠原信嶺の案内で森長可、団忠正、毛利秀頼、河尻秀隆らが浅瀬を抜けて大手口から攻めかけた。飯田城を逃げ出した保科正直は高遠城で面目を失い、織田勢に内応をすることを決意、信嶺に城中に火を懸けると申出るが、隙がなく実行できなかった。
3月2日、大手、搦手から信忠の大軍に攻め立てられた。信忠も先頭に立って戦ったため、織田軍の士気は高かったのである。
高遠城内の兵は激しく抵抗し、女・子供まで一人残らず勇敢に戦った。女房衆までもが長刀を持ち、弓を射た。討死するもの数知れず、文字通り全滅したのである。こうして高遠城は僅か一日で陥落し、仁科盛信の首は信長の下に送られたのであった。
仁科盛信
