明智秀満 (57)

 

 

 

「信長公記」

 

 『木曾義政 忠節の事

 二月朔日、信州木曾義政、御身方の色を立てられ侯間、御人数出だされ侯様にと、苗木久兵衛、御調略の御使申すに付きて、三位中将信忠卿へ言上のところ、時日を移さず、平野勘右衛門を以て、信長公へ右の趣仰せ上げられ侯。然るところ、境目の御人数出だされ、人質執り固め、其の上、御出馬の旨、上意侯。即ち、苗木久兵衛父子、木曾と一手に相働き、義政の舎弟上松蔵人、人質として、まず進上候。御祝着なされ、

 菅屋九右衛門に預け置かれ候。』

 

 遠山友忠(苗木久兵衛)木曽義昌の書状による交渉は秘密裏に続いていた。友忠はその都度、信忠信孝に確認を取り、慎重に事を進めていたのである。やがて、友忠から信忠を先鋒に、織田勢の信州侵攻が間近に迫っていること、そして近く「東夷征伐」の勅命が下りることを知らされる。

 「武田が朝敵になるのか。」と義昌は絶句した。人質の命もさることながら、このままでは木曽一族は全滅である。義昌は武田家の滅亡を確信した。

 

 このような動きは、いつしか人の知ることとなり、木曽家中は互いに疑心暗鬼を募らせ、不穏な空気が流れていた。特に正室である信玄の三女・真理姫とその側近にとっては深刻な事態であった。

 

 真理姫は弘治元年(1555年)僅か6歳で義昌のところに嫁いだ。「甲陽軍鑑」では、真理姫には千村備前守山村新左衛門が監視役として派遣されたとしているが、山村新左衛門は元々、木曽家の重臣で甲府との取次役であったともいう。

 

 天正10年(1582年)正月、義昌は兵備を整え次第に叛意を明らかにしていった。思い余った真理姫は側近・千村備前守を甲州に派遣し、これを密告したのである。

 勝頼は大いに驚き、当初、これを信じようとはしなかった。そこで勝頼は義昌を召し出して問い質そうとしたが、義昌は病と偽り甲府に行こうとしない。止むを得ず、重臣・山村新左衛門が身代わりに甲府に赴いたが、今度は勝頼が新左衛門を帰そうとしない。新左衛門は隙を窺って木曽へ逃げ帰ったのであった。

 

「信濃史蹟」

 

 『「木曽には、故法性院の恩誼を忘却して織田に降り給う由、風説、人の取沙汰専らに候。斯くては、今迄の好誼も是まで、木曽家の滅亡も瞬く間、ところ存じ候へ。」使者の口上、尊大にして頗る義昌を軽ず。義昌激怒、家臣西尾丹波に命じて、使者の首を斬らしめ、以て益々備えを厳にする。斯くて鳥居峠の第一戦は開かれたり。』

 

 叛意を固めた義昌に対して勝頼は恫喝で臨んだ。勝頼の使者は尊大に振舞い、甚だしく義昌を軽んじた。「木曾家を瞬く間に滅ぼしてくれる。」と言い放ち、義昌激怒させる。

 義昌は西尾丹波という家臣に命じて、不遜な態度の勝頼の使者の首を刎ねた。かくして義昌の謀叛は逃れられない事実となったのである。

 

 

南木曽郡妻籠宿