明智秀満 (53)

 

 

 

「斎藤利三書状(天正10年(1582) 1月11日) 第2巻所収」

 

  『斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した書状。利三が書いた書状は、現在数通しか残されていません。天正3年(1575)頃、織田信長は長宗我部元親に、四国内は元親の切り取り次第という許可を出していましたが、天正9年の後半頃に、土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達しました。元親は承知せず、それを諫めるために利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと『長宗我部元親記』(寛永8年(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や『南海通記』(享保2年(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にはあります。本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、空然に元親の軽挙を抑えるように依頼したもので、信長と元親との対立状況がわかるとともに、利三が元親に働きかけを行った確証となる史料です。』

(一般財団法人 林原美術館 岡山県立博物館プレスリリースより)

 

 光秀利三を坂本城に呼び出し、信長の意向を説明すると、「できれば戦にはしたくない。うまく長曾我部を説得してほしい。」と言った。

 「はっ。」と承った利三であったが、内心は困惑した。

 

 阿波、讃岐両国は長年、三好三人衆の領地であった。三人衆は度々、畿内に侵入して信長と戦ったのである。しかし信長との抗争の末、三好一族の勢力は次第に衰えていった。

天正3年(1575年)四万十川の戦いに勝利し、土佐一国を統一した長曾我部元親は、いち早く信長に接近して同盟を結んだ。当時は信長にとっても三好一族をけん制する上で元親の存在は貴重であったのだ。これ以降、元親との取次を担ったのが利三であった。

 

 ここからは少しややこしいが利三と元親の関係を説明しよう。

 まず蜷川親順の娘がいる。この娘が斎藤利賢と結婚して利三頼辰を生む。その後、蜷川の娘は離婚し、石谷光政と再婚して娘を生む。この娘が元親の夫人である。つまり母親を介して利三と元親は異父兄弟という事になる。さらに兄の頼辰は石谷家を継ぎ石谷頼辰となる。その時、光政の娘と結婚しているのであるが、もしこれが蜷川の娘の子であれば兄妹の結婚となるので、さすがに異母妹であろう。この二人の娘が嫡男・信親の正室となっている。このように利三は実兄・石谷頼辰を通じて義弟の元親との取次を行っていたのである。

 

 利三は元親の怒りはよく理解できた。戦った家臣に褒賞を与えなければ主君としての信頼を失うのだ。しかも「道理」は元親にあった。

 しかし、それでも既に天下人として君臨している信長に逆らっても、元親に未来はない。それをどのように伝えるべきか、恐らく書状では到底伝わらない。やはり、兄である頼辰土佐に行ってもらう以外にはなかったのである。