明智秀満 (52)

 

 

 

「信長公記」

 

 『淡路島 申し付けらるるの事

 十一月十七日、羽柴筑前、池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、岩屋 へ取り懸け、攻め寄せしのところ、懇望の筋目侯て、池田勝九郎手へ岩屋を相渡し、別条無く申し付く。

 十一月廿日、姫路に至りて、羽柴筑前守帰陣。池田勝九郎、これも同時に人数打ち納むるなり。淡路島物主、未だ仰せ付けられず侯なり。』

 

 秀吉は因幡の鳥取城兵糧攻めで落とすと、直ちに伯耆に出兵した。羽衣石城の南条元続吉川元信の鳥取城救援を妨害していたのだ。元信は全面対決も辞さぬ態勢を示したので、秀吉は兵糧を城内に搬入すると早期に撤退をした。

 さらに秀吉は池田元助とともに淡路に向かった。安宅清康由良城で破り、毛利方の岩屋城を落城させ淡路島を制圧することに成功する。秀吉は岩屋城に生駒親正をいれて、淡路島全域は仙石秀久に担当させた。

 

 光秀が安土城に登城すると、すぐに信長に呼ばれた。二人は陽当たりが良い、離れの個室で密談を始めた。

 「淡路が当家に落ちた。そこで土佐の件であるが、そろそろ結論を出さねばならないと思う。」と信長は言う。

 信長はかつて長曾我部元親四国切取り次第の朱印を与えている。土佐国は当時、10万石程度と思われ、とても四国を制圧できる兵力はないと判断されていた。ところが元親は剽悍な土佐兵を駆使して阿波、讃岐の大半を制圧し、南伊予も押さえた。北伊予の河野氏だけは毛利氏の支援を受けて抵抗を続けたのである。

 

 天正8年(1580年)信長は元親に対して土佐国と阿波南半国の領有を認め、織田家に臣従することを求めた。これに対して元親は、四国は自力で切取ったこと信長から朱印を受けていることを理由として拒否した。

 このような事情で織田家長曾我部家は対立するようになっていた。元親は明智家重臣・斎藤利三取次役にしていたこともあり、光秀もこの件には大いに関わっていた。

 

 「十兵衛、お前は三七(信孝)をどう思う。」と信長は唐突に言う。

 「オレは三介(信雄)七兵衛(信澄)岐阜(信忠)の支えとしたいと思うたが、近頃、もう少し三七を引き上げたいと思うようになった。」と言った。

 信忠信雄は信長の側室・生駒吉乃の生んだ男子である。吉乃は信長が最も愛した女性で、吉乃が亡くなった時、信長は人目も憚らず泣いたという。このため、織田家中信忠信雄は「正室」の子として扱われていた。

 信長はその他の側室の子には、ほとんど興味がなかったが、唯一の例外が信孝であった。信孝の容貌はあまり信長に似ていなかったが、賢く勇敢で、人との付き合い方も心得ていた。

 

 「オレは三七を四国の管領に任じて、何かと困難が多い四国をあやつに治めさせようと思う。」と信長は言った。

 光秀もまた信孝を高く評価していたので、「それは良いお考えかと存じます。」と告げた。

 「まずは長曾我部土佐一国2郡程度で納得するよう説得せい。それがだめなら三七を総大将として遠征軍を出すと脅せ。まだまだ先が長い。オレは四国ごときで兵を失いたくはないのだ。」と信長は言った。

 「分かりました。硬軟の策を取り混ぜて土佐を屈服させてみせましょう。」と光秀は応じた。

 

 

長曾我部元親