明智秀満 (51)
「信長公記」
『今度、毛利家人数、後巻として罷り出づるについては、信長公 御馬を出だされ、東国、西国の人数、膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り侯。然して、永岡、惟任両人は、大船に兵粮積ませ、永岡舟の上乗り。松井甚介、惟任 舟の上乗り申し付け、因幡国とっとり川の内へ着けおき侯。』
8月13日、毛利・吉川・小早川勢が因幡、鳥取に出陣するのではないかと言う風説が流れた。信長は丹後の細川忠興、丹波の光秀、摂津の池田恒興以下、高山右近、中川清秀、安部二右衛門らに先陣を申し付けるので出陣の準備をするように命じ、他国衆のもの馬廻衆も準備を怠らないように伝えた。
急ぎ光秀と庄兵衛、秀満は丹後の宮津城に向かった。畿内で集められた兵糧を庄兵衛の指揮で運び入れたのである。宮津城には大きな安宅船が鈴なりになっていた。高島水軍を見慣れている秀満も規模の大きさに驚いた。
「これは見事なものですな。」と秀満が言うと、
「北海は波が荒く内江の船ではすぐに難破します。瀬戸内の船も持ちますまい。」と忠興は少し自慢げに言う。
この船団を指揮するのが松井康之である。康之は細川家の重臣といわれるが、信長直臣の与力であるという説もある。ただ、この頃は、細川領の丹後松倉城の城主であるので細川家臣と言ってよいであろう。
康之は「明智嫌い」でも知られているが、さすがに両家の作業に支障をきたすほどではない。
細川・明智の船団は毛利水軍を排除しつつ、鳥取川の羽柴陣に兵糧を搬入した。康之は実に見事な指揮を見せた。
「言うだけのことはあるな。」と秀満が言うと、
「他に取り柄がないのだろう。」と庄兵衛は答える。この二人は以前に何かあったのかも知れない、と思った。
「鳥取城も、もはや時間の問題であるな。」と光秀が言う。
兵糧攻めは、実は簡単ではない。人間には“魔が差す”事があるからだ。物理的に封殺しなければ、必ず城方の反撃を受ける。
「その点、秀吉は完璧だ。恐らく八上城で用いた鹿垣の包囲を見て学んだのだろう。」と秀満は思った。良いものは学ぶと言う学習能力の高さに底知れぬ恐ろしさを感じた。
秀吉の伸張を警戒する秀満に、光秀は「まだまだ。」と笑う。光秀にとって秀吉はあくまでも現場の指揮官に過ぎないのだ。政権中枢にいる自分や長秀、一益とは、まだ相当の開きがあると思っていた。
しかし、秀吉は毛利と言う大敵を相手にしていた。活動範囲も山陽から山陰にかけて広範囲である。当然の事として動員する兵力も織田家中随一である。やがて、その威勢は天下に轟くようになった。
羽柴秀吉