明智秀満 ㊽

 

 

 

「信長公記」

 

 『伊賀国、三介殿に仰せ付けらるる事

 九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭を初めとして、ことごとく放火侯のところに、さなごより足軽を出だし侯。瀧川左近・堀久太郎両人見計いて、馬を乗り入れ、究竟の侍一余騎討ち捕り、その日は、陣所々の本陣へ打ち帰し、

 九月十一日、さなご攻め破るべきのところ、夜中に退散なり。さなごへ、三介信雄 入れ置き申し、諸勢、奥郡へ相働き、諸口の軍兵入れ合い侯間、ここにて、郡々を請け取り、手前切りに御成敗。その上、城々破却申しつけられ侯なり。』

 

 畿内において織田家に服さぬ者は紀州の雑賀衆伊賀国だけとなっていた。天正9年(1581年)4月、伊賀国の福地伊予守耳須弥次郎が織田家に恭順した。これにより信長は伊賀国再侵攻を決意する。信長自ら出陣しようとするが、長秀一益が押しとどめた。

 「ここは何卒、近衛中将様を総大将にお立てくだされませ。」と長秀が言う。

 「先の伊賀攻めで面目を失っております。中将様はまだ、お若い故、何卒名誉挽回の機会を御与えくださいませ。」と一益も同調する。

 「此度も失敗すれば切腹ものだぞ。」と信長は言う。

 「そこはわれら乙名がお助けしますので、何卒お願い申し上げます。」と長秀が言うので、信長もしぶしぶ同意した。

 

 光秀は朝廷工作もあり伊賀攻めは免除とされたが、「どうにも話が出来すぎている。」と感じた。おそらく信雄の総大将は最初から話が付いていたのであろう。「失敗した時の言い訳を用意したか。」と訝しんだ。信長は余ほど信雄の能力を買っていないのだろう。

 

 第二次伊賀攻めは空前の規模となった。そもそも、9万人しかいない伊賀の国に5万の兵で攻めるのだ。光秀は「空前の殺戮」が行われるのではないかと危惧したが、口を挟めることではなかった。雑賀攻めでも経験したが、山岳部隊との戦いは容易なことではない。敵の城を焼き尽くし、殺し尽くさなければならない。味方も奇襲や夜襲で大きな被害がでるであろう。

 

 9月27日、6か所から織田軍は伊賀に侵攻した。

 

 伊勢地口から信雄、織田信澄ら1万人、笠間口から筒井順慶が3700人、初瀬口から浅野長政ら1万人、多羅尾口から堀秀政ら2300人、王滝口から蒲生氏郷7千人、そして柘植口から丹羽長秀、滝川一益、滝川雄利ら14000人である。

 

 織田勢の総勢は47000人となった。対する伊賀衆は1万人弱であった。