明智秀満 ㊼

 

 

 

「信濃史蹟 下」

 

 『恰も、天正九年、織田信長甲信乱入の企てあり。木曽氏は武田氏の婚姻たるを以て、必ず入信の峡路を扼すべきを思い、先ず美濃国苗木の城主遠山久兵衛友政をして窃かに利害を脱かしむ。義昌遂に意を決して盟う所あり。』

 

 信濃国木曽氏源(木曽)義仲を祖とし、義昌はその19代目の当主であるという。ただし、これは自称で、専門家によれば南北朝期に系図が作成されたのだという。どうやら直系は藤原氏だとも言われている。だが、木曽谷で19代も続けば、義仲の直系でなくても立派な名家である。

 

 父・木曽義康の時代に武田晴信(信玄)の侵攻を受けた。当初は諏訪氏、村上氏、小笠原氏らと共に晴信に対抗したが、天文23年(1554年)には武田家に屈して従属するようになった。

 晴信は嫡男であった義昌に三女・真理姫を嫁がせ、一族衆として木曽谷の所領を安堵した。義昌は一族衆として厚遇を受けたようにも見えるが、実際は親族や家臣を甲府に人質に出し、真理姫とそれに随行してきた武田の家臣により常に監視を受けていたのである。

 

 これ以降、義昌は国境の国衆として美濃の遠山氏、飛騨の三木氏と戦闘をくり返すことになる。

 元亀3年(1572年)には飛騨国の三木氏と争い、信玄から感状を受ける。その信玄が元亀4年(1573年)に死ぬと家督は四男・勝頼が継いだ。

 天正元年(1573年)には美濃国苗木城を攻めた。さらに天正2年(1574年)には勝頼の東美濃侵攻を受けて阿寺城の遠山友重を攻めて殺害した。

 ところが、天正3年(1575年)勝頼は長篠城で大敗を喫す。ここから武田家の暗転が始まる。

 信忠は直ちに秋山虎繁が籠る岩村城を包囲した。長篠の敗戦から立ち直れていない勝頼は義昌に後詰を命じた。義昌は3千の兵で国境まで詰めたが、3万の織田勢に敵う筈もなく、国境付近から岩村城に近づくこともできなかった。結局、勝頼が農民兵を搔き集め、何とか救援に向かおうとするも、飢餓状態の岩村城はついに落城し、虎繁は処刑される。

 この件で勝頼と義昌の双方に抜きがたい不信感が生まれてしまったのであった。

 この後、武田領内では相次ぐ遠征と新城建設のための賦役が増え、次第に勝頼に対する怨嗟の声が高まっていた。

 

 天正9年(1581年)3月、高天神城が陥落すると武田家隷下の国衆に動揺が走る。後詰を受けられなければ国境の諸将は死ぬほかないのだ。

 8月、宿敵ともいえる苗木城の遠山友忠から「主人・信忠によると近く織田勢の信濃乱入がある。」という知らせを受ける。織田家が信濃に侵攻すれば真っ先に木曾谷が狙われる。果たして武田家からの後詰は来るのであろうか。義昌は苦悩する。

 甲府には母親(70歳)と側室、嫡男・千太郎(13歳)長女・岩姫(17歳)が人質として囚われている。これを見捨てることができるのか。義昌の苦悩は堂々巡りで果てしなかった。

 

   木曽義昌