明智秀満 ㊻

 

 

 

「信長公記」

 

 『信長公、その日は、下坂本 (滋賀県大津市) に御陣取り侯て、廿五日、叡山の麓を取り巻かせ、香取屋敷 丈夫にこしらえ、(中略)穴太が在所、これまた、御要害仰せ付けらる。簗田左衛門太郎、川尻與兵衛、佐々蔵介、 塚本小大膳、明智十兵衛、苗木久兵衛、村井民部、佐久間右衛門、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀新左衛門、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞 、佐藤六左衛門、中條将監 、十六首 置かる。』

 

 「信長公記」に初めて遠山友忠(苗木久兵衛)の名が出てくるのは元亀元年(1570年)の「志賀の陣」である。当時、遠山一族は織田と武田に両属していて、いわば緩衝地帯となっていた。しかし正室が信長の姪であったためか、友忠は早くから一貫として織田方であった。

 

 東美濃の名家として繁栄していた遠山氏であったが、戦国時代は苦難の時期であった。友忠は飯羽間遠山氏遠山友勝の子として生まれた。永禄12年(1569年)に苗木遠山氏遠山直廉が戦死すると、信長の命を受けて父・友勝が苗木城主となり、友忠は飯羽間城主となった。この時、友忠は「飯羽間久兵衛」と呼ばれた。

 元亀元年(1571年)には武田方武将・秋山虎繁が東美濃に侵攻、遠山一族は遠山景行(秀満実父)を総大将に上村合戦で戦うも敗れる。遠山一族は景行をはじめ多くの戦死者を出した。後詰として駆け付けた織田方の明智光廉(長閑斎・秀満養父)小田子合戦で虎繁を破り、秋山勢を信濃に追い返したが、遠山一族の被害はあまりに大きかった。

 

 友忠はその後、長男・友信に飯羽間城を任せて、明照城に移り、父の死と共に苗木城主となった。以降、苗木久兵衛と言う。

 元亀3年(1572年)岩村城主・遠山景任が死ぬと、信長は自らの四男・御坊丸を景任の正室であったおつやの方(信長・叔母)の養子にして、岩村城主とした。

 信玄西上の際、虎繁はまたもや東美濃に侵攻し、岩村城を包囲した。窮地に陥っていた信長は後詰を送れず、おつやの方は降伏、虎繁の嫁になる条件を受けて開城した。そして御坊丸は人質として甲府に送られたのである。

 

 以降、友忠は武田方の木曽義昌と国境を挟んで何度も戦ったが、天正2年(1574年)には勝頼が3万の兵力で来襲し、明知城・苗木城をはじめ、多くの東美濃諸城を落とした。

 天正3年(1575年)に長篠の戦いで勝頼が敗れると、今度は信忠が東美濃に進出し、岩村城を落とした。信長の怒りは激しく、捕らえられた虎繁、おつやの方は逆さ磔となり、助命されたはずの武田の兵は織田勢に帰路に襲われ全滅、武田方に付いた遠山勢も皆殺しとなった。こうして遠山氏は苗木遠山氏・明智遠山氏、串原遠山氏だけになってしまったのである。

 

 御坊丸は武田家で元服し織田源三郎信房となった。西の織田家、南の徳川家に加え、東の北条家との対立にも苦慮した勝頼は、佐竹家を通じ、織田方に和議を申し込んでいた。天正9年(1581年)、武田方の外交僧・大竜寺鱗岳は和睦交渉の中で、障害となっていた御坊丸の返還を勝頼に勧め、将来は武田典厩の婿となる約束で織田家に戻された。

 織田家に返還された御坊丸は改めて織田家で元服を行い、天正9年11月24日、織田勝長となった。こうして信長は御坊丸を取り戻すことに成功するのである。

 

 その一方で友忠は周辺の国衆に調略を仕掛けていた。意外にも長い間、鎬を削った木曽義昌が最も感触が良かったのであった。

 

苗木城跡