明智秀満 ㊹
この頃、光秀は坂本城より安土城に留まることが多くなった。秀満には、信長と光秀は親密さが増したように見えた。
利三は諸般の事情があって、安土城にあまり出向かない。恐らく一鉄や稲葉衆に会いたくなかったのであろう。
そのためか、左義長以来、秀満が安土に同行することが多くなったのである。光秀は意図的に「明智左馬助(秀満)」を明智家の筆頭重臣として売り込んでいるように思えた。
思えば光秀の嫡男・光慶はまだ12歳である。元服したとはいえ、光秀に何かあれば明智家は存続も難しくなるであろう。光慶の後見人として、どうしても叔父の「明智左馬助」と言う人物を織田家中に認識してもらう必要があったのである。
「ようするに親父(長閑斎)の代役だ。」と秀満は理解していた。長閑斎は叔父として若い頃から光秀を後見してきた。光秀の体調が悪い時は代将として軍勢も指揮したのだ。明智家も代替わりが近づいたという事だ。
秀満は事実上、光秀が長秀に代わり織田家の筆頭家老になったことを喜んでいたし、誇りにも感じていた。しかし、実態はそのような生易しいものではなかったのである。信長が光秀に期待していたのは、まさに「謀略」であった。
当面は「武田」「長曾我部」「毛利」「上杉」「北条」「徳川」をどう始末するか。信長は断じて足利将軍の二の舞を演ずる気はない。つまり百万石を超えるような大大名の存在を許さないことが基本方針である。これは織田家の重臣も同じで、秀吉がどんなに活躍しても信忠の脅威となるような石高を与える気はないのである。
まず「武田」「上杉」は滅ぼすとして、最終的に恭順するであろう「長曾我部」「毛利」「北条」の処遇はどうするか。そして同盟国である「徳川」をどうするか、これは大変な難問である。
最終的には織田家を中心に、小領主たち、最大でも50万石程度の大名を全国に配置し、各地に取次(責任者)を置いて中央集権的な権力を作る。そして地方の武装解除を進め、代官等の行政官による領国支配を進める。その場合、失業する武士、足軽たちはどうなるのか。彼らが将来、大規模な一揆や反乱を起こすことはないか。
「騒ぎを起こす前に、出来るだけ間引いておく必要がある。」と信長は考える。だからできるだけ大大名は滅ぼしたい。しかしそれでは膨大な兵力の消耗となるので、光秀は「彼らにまっとうに生きる道を与えるべきだ。」と考えるのだ。
「道路でも橋でも良い。当面は土木工事で働かせて、国土の再建と共に生きる糧を与えればよい。」と思うのである。長年の戦乱で国土はすっかり荒廃しているのだ。そして、できれば彼らから武器を取り上げ、全員が農村に戻るべきだと考えているのである。
さて、当面は甲斐武田氏である。
天正9年(1581年)正月、勝頼は新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館からの移転を開始した。3月、高天神城に後詰を送らず見殺しにしたことで武田家の威信は致命的に失墜し、国人衆は大きく動揺している。
勝頼は織田家との和議を模索しているが、信長は「曖昧な返事をして、適当にあしらえ。」と言っている。武田は滅ぼすと決めているのだ。
武田は腐り始めている。調略を進めるなら今であろう。この甲州征伐をどのように仕上げるか、光秀の腕の見せ所である。
躑躅ヶ崎館の水堀