明智秀満 ㉝
「信長公記」
『遠州高天神、家康御取り巻きの事
遠州 高天神 の城、 武田四郎 人数入れ置き 相拘へしを、 家康公押し詰め、鹿垣 結い回し、取り籠めをかせられ、御自身 御在陣侯のなり。』
徳川家康は天正8年(1580年)8月には「高天神六砦」と言われる包囲を完成した。これにより高天神城は完全に包囲されたのである。
家康は10月になると自ら5千の兵を率いて布陣したが、敢えて力攻めにせず、鹿垣を巡らし、兵糧攻めを強化した。この辺は光秀の八上城攻め、秀吉の三木城攻めに通じるものがある。時間はかかるが、自軍の損害を最小限に抑えつつ、敵方を全滅させる戦法である。戦略的優位に立っていることと後詰が来ないことが条件である。
因みに鹿垣とは狩りをするときなどに用いられた竹等を編んだ垣である。転じて戦場で敵の侵入を防いだり、刑場で脱走を防ぐことなどに用いられた。
当然のことながら、高天神城の城将・岡部元信は勝頼に緊急の救援要請を行ったという。
「甲陽軍艦」
『天正八年九月、勝頼公駿河より御馬入れて、甲府にをいて高天神後詰の御談合に必高天神後詰相やめられ尤に候、わかき者にて候へ共横田甚五郎申上候ごとく被成よと長坂長閑斎跡部大炊介、典厩大龍寺申上らるるに付いて、其儀になされ候、信玄の御時は、信長居城岐阜の五里近所へ、焼詰られても、信長おぢて出ざるに、今は信長において、高天神の後詰之なく、但勝頼公仰せらるる甲府にて後詰、高天神へすまじとはいはれず候間、さあらば東上野へ打出せんなど御覧みなだるる也。』
勝頼は高天神城を救援すべきだと考えていたようだが、高天神城の軍監・横田尹松は「高天神城は捨てるべきだ。」と言っていたようである。長坂光堅(長閑斎・釣閑斎)武田信豊(典厩)、跡部勝資が救援に反対したと書かれている。
当時の武田家は連年の戦争で疲弊していて、高天神城に対する補給は大きな負担になっていたようである。「甲陽軍艦」で、この三人は勝頼を惑わす佞臣としているが、現実はそう簡単ではない。傾きかけた大樹を支えることは誰にとっても容易なことではないのである。
当時、武田家は西の織田家、南の徳川家のほか、東の北条家とも抗争を続けており、北の上杉家以外は敵ばかりであったのだ。その中で、武田家の重臣は織田家との講和の道を模索していたのである。しかし、残念ながらすでに手遅れという他なかった。
どちらにせよ、高天神城は捨て去られたのである。
鹿垣
