明智秀満 ㉖

 

 

 

 

「信長公記」

 

 『閨 3月 9日、 柴田修理亮 加州へ乱入。添川・手取川 打ち越え、宮之腰に陣取り、所々に放火。(中略)

 11月17日、 柴田修理亮 調略にて、賀州の一揆歴々の者、所々にて手分けを申し付け 生害させ、頸ども安土へ進上。すなわち、松原町 西に懸け置かれ侯なり。』

 

 天正6年(1578年)上杉謙信が亡くなると、越後の上杉家は「御館の乱」という内紛が起きる。この混乱に乗じて越中に進軍したのが斎藤利治であった。

 斎藤利治は美濃の蝮と呼ばれた斎藤道三の末子である。信長は長良川の戦いで敗れた美濃斎藤家を継がせようと、この少年を保護した。利治は正室・帰蝶の弟であったため、信長は一族衆として近習させたようである。

 永禄10年(1567年)には加治田城主となる。やがて利治は信長の期待にたがわぬ働きをするようになる。

 永禄11年(1568年)には観音寺城の戦い、翌年には伊勢大河内の戦い、元亀元年(1570年)には小谷城の戦い、姉川の戦いにも参戦している。

 元亀4年には朝倉討伐で父を殺した義龍の子である斎藤龍興を戦死させている。天正2年(1574年)には伊勢長島一揆と戦い、信忠とともに岩村城の戦いにも参加している。こうした働きが認められ天正4年(1576年)信忠が織田家の家督を継ぐとその重臣となった。

 

 天正6年(1578年)には親友・姉小路頼綱の飛騨国を経由し、神保長住の援軍として越中国に入る。月岡野の戦いで上杉軍を撃破すると富山城を奪った。この働きで利治は信長・信忠から感状を受けている。

 天正7年(1579年)信忠隊が有岡城で荒木村重の夜襲を受けると、信長は利治に越中撤退を指示した。利治は越中から摂津の信忠のもとに戻り、有岡城の戦いに臨んだ。

 

 柴田勝家織田信秀の家臣として仕え、信長が織田家の家督を継いだ時には既に重臣の一人であった。天文20年(1552年)には信長の弟・信勝の家老であったという。弘治2年(1556年)には追放された林秀貞と共に信勝を擁立して信長に謀叛したが、稲生の戦いで敗れて降伏した。それ以降は信長に忠義を励み、奉行等をしていたが、次第に実力を認められ重用されるようになる。

 天正4年(1576年)には北陸方面軍総司令官に任ぜられ、天正5年(1577年)には、上杉謙信と手取川で激突し、大敗している。

 天正8年(1581年)勝家は加賀一向一揆の拠点・金沢御堂を攻め滅ぼすことに成功する。一揆勢は鳥越城に拠点を移すも勝家・佐久間盛政・柴田勝政の猛攻を受け、ついに加賀一向一揆は鎮圧された。佐久間盛政は金沢城(金沢御堂)の初代城主となり、加賀半国を与えられたのである。

 

 11月勝家はついに加賀を平定し、能登国・越中国に進出する。信盛の折檻状にもあるとおり、勝家は北陸で苦労を重ね、ようやく目に見える成果を上げた。そして信長から賞賛を受け、信盛に代わり織田家の筆頭家老に上り詰めたのである。

 

柴田勝家