明智秀満 ㉕

 

 

「寛政重脩諸家譜」

 

 『〇佐久間信盛---八年明智光秀が讒によりて右府の勘気をかうぶり、紀伊国高野山にのがれ、のち病を療せむがため同国十津川の温泉に浴し。十年正月二十四日彼地にをいて死す。年五十五。…

 〇佐久間正勝(信栄)---後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがれる。信盛死するののち、右府其咎なきことを知って後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。…』

 

 「寛政重脩諸家譜」によると佐久間父子の追放は光秀の讒言によるものだとしている。また「佐久間軍記」にも『誰かの讒言』によるものではないか、と記されている。ただ、これらの書はいずれも後年(江戸前期から中期)に書かれたものであるため信用はできない。改めて19ケ条の折檻書を見ても讒言によって書かれたと思われる項目は見当たらないのである。

 

 まず、信長は「保田安政(佐久間安政)の書状」を思い出し、沸々と怒りが湧いたようである。『先書に注進、彼の一揆攻め崩すにおいては、残る小城ども大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。然るところ、一旦の届けこれなく、送り遣わす事、手前迷惑これを遁るべし。事を左右に寄せ、是れ、存分申すやの事』としている。意味としては、本願寺が陥落すれば自ずと小城は退散するだろう、と言っているようである。それを信長に諮らず、父子連判で送りつけたのは「自分の責任を逃れるためだ。」と糾弾しているのである。実は、この話の何がいけないのか、私には良く分からないのだが、後書きにおいても、『数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。』と言っている。よって誰かの讒言というよりは、この書状が信長を怒らせたことは間違いなさそうである。

 

 ここで信長が再三言っているのは“①武士とは思えぬ卑怯な行い。吝嗇で気難しく、家臣に褒美を与えない。主人である信長に口答えをして面目を失わせた。”事である。

 

 佐久間信盛の失脚は、織田家に大きな影響を与えた。筆頭家老は柴田勝家となり、続いて二番家老が丹羽長秀となった。この二人は「織田家の双璧」と呼ばれた。つぎに、信盛の大坂方面軍は解体され、光秀の「畿内方面軍」と秀吉の「中国方面軍」が独立した。

 

 このように信盛追放により、光秀秀吉が大きな利益を得たのは確かである。後年、光秀が讒言の濡れ衣を着せられ、秀吉に疑惑が向けられなかったのは、謀叛人権力者の違いであろう。死人に口なしである。

 この事件はもう一つ織田家中に深刻な影響を与えた。長年苦労して、どれ程織田家に尽くした忠臣であっても利用価値がなくなれば、ぼろ雑巾のように捨て去られるという事である。多くの家臣は「明日は我が身である」と思い知らされた。実は織田家の将来にとっては、こちらの方が深刻な問題であった。