明智秀満 ㉑

 

 

 

「信長公記」

 

 『大坂退散 御請誓紙の事

さるほどに、大坂退城 仕るべきの旨、かたじけなくも禁中より御勅使なされ、

門跡 ・ 北の方 、年寄ども、如何あるべきや否の儀、権門恐れず、心中の存知旨趣、残らず申し出ずべきの由、尋ね申さるるのところに、下間丹後・平井越後・矢木駿河・井上・藤井藤左衛門 はじめとして評諚致し、退屈の験か、または、世間見極め申すの故か、今度は、上下御一和、もっともと申す事に侯。ここにて、御院宣を違背申すに付きては、天道の恐れも如何侯なり。その上、信長公 御動座なされ、 荒木 ・ 波多野 ・ 別所 御退治の如く、根を断ち、葉を枯らして、仰せ付けらるべく侯。近年、大坂端城 51ヶ所 相かかわり、上下苦労の者どもに賞禄をこそ宛行わずとも、せめての恩に、命を助け申すべき旨、門跡 相存知られ、来たる7月20日以前に、大坂退散に相定む。』

 

 信長は大坂本願寺と激しく争う一方で、何度か和議の交渉も進めている。本願寺法主・顕如は天正6年(1578年)に正親町天皇講和の勅命を拒否している。さらに信長は天正7年(1579年)にも朝廷に和議の仲介を依頼していて、この頃から顕如も恒久的和議を考えるようになった。

 

 天正7年から天正8年(1580年)1月にかけて、八上城(波多野氏)、有岡城(荒木氏)、三木城(別所氏)が相次いで落城したことから、顕如は織田勢の兵糧攻めに恐怖を感じるようになった。そこに朝廷から勧修寺晴豊庭田重保が勅使として和議を交渉しに来たのである。顕如は年寄どもと協議し、ついに本格的に和議を結ぶことを決意した。3月7日、本願寺は信長に誓紙を出し、3度目の講和を果たしたのである。

 

一 惣赦免事

一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事

一 人質為気仕可遣之事

一 往還末寺如先々事

一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事

一 月切者七月盆前可究事

一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事

  三月十七日 朱印(信長)

 

 7月2日、顕如は大坂本願寺を出て、紀伊鷺森御坊に移った。しかし一旦、和議に同意した長男・教如は再び信長に反抗して籠城を始める。これを「大阪拘様」という。これは信長との誓約違反となるため、顕如は教如を義絶した。最終的に教如は大坂本願寺から退去するのだが、これが、本願寺が東西に分かれる原因となったという。

 

 一方、有岡城を失い、尼崎城から退去していた村重は3月に最後の砦となった花隈城池田恒興らに攻められて陥落し、毛利方に亡命している。

 こうして信長は畿内西部に盤踞していた、大坂、丹波、摂津の反信長勢力を一掃したのである。

 

 京都東本願寺