明智秀満 ⑳

 

 

 

「信長公記」

 

 『唯今申し上げ侯 趣意は、去々年以来、敵対に伏せ置かるるの条、謹しみて申し断るべき心底のところに、不慮に内輪の面々、覚悟を変うるの間、是非に及ばざるものなり。然らば、今に至りて、相届く等 ことごとく討ち果たさるべき事、不便の題目なり。御憐愍を以て助け置かるるにおいては、それがし両 3人腹切るべく 相定め訖んぬ。この旨、相違無き様に御披露仰ぎ、恐々謹言。

 正月15日 別所彦進 ともゆき

  浅野彌兵衛 殿 別所山城 よしちか

  孫右衛門 殿    別所小三郎 長はる

 右の旨、披露のところ、 羽柴筑前 感歎し、「 諸士を相助くべき 」の返答ありて、樽酒 2,3荷、城中へ送り入れられ、 別所 満足致し、妻子・兄弟・各家老の者 呼び双べ、「 正月17日には腹を切るべき 」の旨、女房子供にも申し聞かせ、互いに盃を取り交し、今生の暇乞 哀れなる次第、申せば、なかなか愚かなり。』

 

 天正8年(1580年)1月、三木城の食糧はついに底をついた。所謂、「三木の干殺し」である。1月6日には宮ノ上砦が、11日には鷹尾山城が落城し、遂に本城を残すのみとなった。1月15日、秀吉は降伏を勧める書状を別所方に送ると、別所長治はこれを受諾したのであった。

 長治は息子と妻を手にかけ切腹、友之も妻を殺して切腹した。吉親は切腹しに抵抗し、屋敷に火を懸けようとしたが、家臣らに取り押さえられ、これも切腹させられた。

 

 こうして、2年以上に渡った、三木城の戦いが終わったのである。「城兵の命を助ける。」との約束であったが、当時の秀吉の書状には「一か所に集め殺害するよう。」命じているという。一方で、城兵の命は助かったという史料もあり、実態は良く分かっていないようだ。ただ、私はこれまでの秀吉の行動を思うと、恐らく全員殺したのではないか、と思う。

 

 有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は救援され、今は秀吉の本陣にいる。幽閉は官兵衛の主君である小寺政職が村重と図ったものであったという。その政職の御着城信忠勢に落とされ、毛利方に逃亡した。

 

 秀吉は、「今後は三木城を拠点として、姫路城を官兵衛に戻そう。」と考えていた。しかし、官兵衛はこれを謝絶して、「姫路城は播州統治の適地である。」と進言する。そこで姫路城を大幅改修し、秀吉の新たな拠点とすることにした。

 三木合戦で竹中半兵衛を失った秀吉であったが、遂に軍師として黒田官兵衛を得た。秀吉は大きく飛躍するための新しい翼を得たのである。

 

 

如水所用の黒糸威胴丸具足(福岡市博物館所蔵)