明智秀満 ⑰
「福知山市史」
『天正年中に明智光秀殿が、丹波全体を平定され、群主村邑の主に限らず、従来の支配者達を追放して浪人となし、天正七年秋所々へおふれを出して次のごとくいわれた。
「昔より丹波は地頭が多い国であると主人信長から聞いていたが、今日皆追放した。これは今までの悪政をやめさせるためである。しかし、足利将軍から代々の御判をもらっている地頭については、その趣を願い出たならば、いくらか領地を残してやる。」と申し渡した。』
天正8年、信長は光秀に感状を与え、丹波一国(29万石)を加増し、34万石を領するに至った。さらに石山合戦で戦死した塙直政の南山城の支配地も与えられたのである。そして信長は丹後の藤孝、大和の順慶を光秀の与力大名とした。
光秀は丹波国内に亀山城、周山城を築城し、横山城を大幅改修して福智山城と改名し秀満を城主とした。赤井氏の居城であった黒井城を増築し利三を、新築の周山城には光忠を入れた。
さて光秀の領国は一般的には34万石と言われる。詳しく調べると、丹波国(慶長郷帳石高では28万石)及び近江国坂本(旧高旧領取調帳・滋賀郡5万石)で33万石である。
しかし天正2年(1574年)、信長は山城国の支配権を四分割して洛中を村井貞勝、桂川以西を藤孝、北部は光秀、南部を塙直政が治める、と定めた。北部とは愛宕郡(2万6千石)葛野郡(3万5千石)であろうか。
さらに塙直政が戦死すると所領であった南山城を与えられている。これも恐らくは相楽郡(3万7千石)綴喜郡(2万5千石)、久世郡(2万8千石)辺りと思われる。これは所領というよりは「支配権」というべきものであろうが、山城国で15万石ほどあったのではないかと思う。
つまり山城国も洛中と桂川以西を除いて、ほぼ光秀の管轄となり、光秀が管理していた所領は畿内で50万石ほどあっただろう。
与力大名となった細川藤孝は宮津城を居城とし、丹後国加佐郡(3万9千石)、与謝郡(4万2千石)を領して、都合8万1千石である。
大和の筒井順慶は天正8年に信長から「国中一円存知」を許され、大和国37万石を与えられている。
さて、光秀は丹波で善政を敷いたとされ、領民に慕われていたという。波多野氏や赤井氏を滅ぼす一方で、恭順した国衆を家臣に取り立てている。福知山市では「福知山御霊大祭」、亀岡では「亀岡光秀まつり」「ききょうの里」というイベントが今でも行われているというのだ。
福智山城では由良川と土師川が合流する地域で河川が氾濫し、水害が頻発していた。光秀(城主は秀満)は大規模な治水工事を実施して、「明智藪」と呼ばれる大きな堤防を築いた。このような治水工事をする領主はこれまでいなかった。領民が新しい国主の登場を喜んだのは当然であろう。