明智秀満 ⑭

 

 

「信長公記」

  

 『十二月十三日、辰の刻に、百二十二人、尼崎ちかき七松と云う所にて、張付けに懸けらるべく、相定め、各引き出さし候。さすが歴々の上臈達、衣装美々しき出立、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達、並び居たるを、さもあらけなき武士どもが、請け取り、その母親にいだかせて、引き上げ引き上げ張付けに懸け、鉄砲を以て、ひしひしと打ち殺し、鑓・長刀を以て差し殺し、害せられ、百廿二人の女房、一度に悲しみ叫声、天にも響ばかりにて、見る人、目もくれ心も消えて、かんるい押さへ難し。是を見る人は、廿日卅日の間は、其の面影身に添ひて、忘れやらざる由にて候なり。』

 

 12月13日、京都に連行された者以外は、見せしめとして尼崎城近くの七松と云う所に連れていかれ、磔に架けられた。美しく着飾った122人の女房衆は既に覚悟を定めたようで、次々に高々と引き上げられていく。幼子を連れた女房は胸にしっかりと我が子を抱いた。

 武士たちは、女房達を次々と鉄砲で撃ち殺し、鑓・長刀で差し殺した。その断末魔の悲鳴は天にまで響き渡った。見ていたものは余りの凄惨さに言葉を失い、目を背けたのである。人々は一ケ月ほど経ってもその悲惨な光景を忘れられず、悲嘆にくれたという。

 

 『此の外、女の分、三百八十人。かせ侍の妻子付く付くの者どもなり。男の分、二百廿四人。是れは歴々の女房衆へ付け置き候若党以下なり。合わせて五百十余人。矢部善七郎、御検使にて、家四ツに取り籠み、草をつまらせ、焼き殺され候。風のまはる随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱・大焦熱のほのほにむせび、おどり上がり、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是なるべし。肝魂を失い、二日とも、更に見る人なし。哀れなる次第、中々申すに足らず。伊丹の城、御小姓衆として廿番に仰せ付けらる。』

 

 磔にされたのは比較的身分の高い女房衆であり、その他の女380人、男240人は、まとめて4軒の家に押し込められ、干し草を積み上げて焼き殺された。火が回るたびに方々で悲鳴が上がり、立ち上る炎で躍り上がり、悲しみの声が空に響き渡った。火をつけた武士たちも、良心の呵責に耐えかねて、地獄の獄卒もこのような自責の念に苛まれるものかと嘆き苦しんだのであった。

 

 光秀は尼崎の報告を受けながら、暗い顔で物思いに耽っていた。光秀自身も武器を手にした者人質に出されたものを殺したことはある。比叡山一向一揆天下の静謐のためには、やむを得ぬことだと理解はしていた。しかし、この度はどうであろう。一族衆はまだしも、城の女房衆や下級武士、その子まで殺す必要があったのであろうか。

 「上様は上月城以来、箍が外れてきている。このままでは、まだまだ無用な殺生が起きるのではないか。」と光秀は懸念した。