明智秀満 ①

 

 

 

「名将言行録」

 

〇明智光春……明智光安の子、初め三宅彌平治と称す。明智光秀の従父兄弟なり。後、復族して左馬助と改む。天正十年六月十五日死、年四十六。

 

「明智氏一族宮城家相伝系図書」

 

〇光俊‐童名岩千代、三宅弥平次、明智左馬助、本名光春、

 丹波国桑田郡周山城主、五万石

 

「明智系図鈴木叢書十三所収」

 

〇康秀-童名彦三郎、三宅長閑斎聟、遺跡号三宅弥平次、後左馬助、

妻長閑斎女

 

「系図纂要」(喜多村弥平兵衛殿)

 

〇光春-明智弥平次、左馬助、天正十年六ノ四於坂本城討死四十六

 

 

 かくして、三宅弥平次明智秀満となったのである。しかし、既に書いたように弥平次の諱は色々あるのだ。光春でも光俊でも光昌でも構わないのであるが、ここでは、本人署名をもとに「明智弥平次秀満」を用いることにする。

 この秀満の系図は相当いい加減なものが多く、共通して言えるのは旧姓が「三宅氏」であること、そして光秀の娘婿であることくらいであろう。その娘も実は養女で、本当は長閑斎の娘である、との説がある。一方、明智左馬助としても良く知られているが、いつから左馬助を名乗ったかが良く分からないのである。

 

 当時の明智軍の編成では、恐らく次将として秀満が独立部隊(1000名程度)を指揮していたようである。利三は直参であるが、実質は与力に近かったと思う。斎藤家の一族郎党を率いていて、これも独立部隊(1000名程度)と思われる。

 藤田伝五、三沢庄兵衛は光秀直属の旗本部隊で、それぞれ部隊長(500名程度)であったろう。明智次右衛門は亀井城代で500名程度、長閑斎も坂本城代として、500名程度を指揮していたのではあるまいか。

 妻木広忠は、名目は与力であるが、実質的に一族衆で兵力は500名程度であろうか。他にも旧幕臣近江衆丹波衆を加えると総勢一万人程度であろう。これら重臣・一族衆には状況に於いて与力武将を付けられるので、戦場において、兵力は変動する。

 

 男所帯で地味であった秀満の屋敷は、正室として倫子が入ると一変した。秀満も、倫子が利発で働きものであることは知っていたが、想像以上である。さすがは光秀の娘である、と感心した。

 「この手際の良さ、実に見事なものであるなぁ。」と秀満が言うと、倫子はにこにこしながら、「はい、何と申しましても、これで二回目ですから。」と言った。