三宅弥平次 (82)

 

 

「信長公記」

 

 『五月朔日、播州に御動座なされ、東国・西国に人数、膚を合せ、討ち勝げて、関戸を限りて仰せつけらるべきの旨、仰せ出さるるところに、佐久間・滝川・蜂屋・維任申す様、播州の儀は、嶮難を拘え、節所を隔て、要害を丈夫に構え、居陣の由、承り候間、何れも罷り立ち、彼の様子見計らい候て、申し上ぐべく候間、御延慮を加えられ尤もの由、各達て御異見なり。

寅四月廿九日、滝川、維任、惟住、出陣。』

 

 さて、この頃の織田家は活動量が多く、「信長公記」を読んでも良く理解できない。そこで日付順に下図の通り整理してみた。

 

 天正6年の正月には安土で祝賀を開いていて、佐久間信盛と北陸に派遣されている柴田勝家らを除けば主な武将が揃っている。

 その後、秀吉は播磨に向かい、播磨国衆と対立して別所氏の三木城籠城を招くこととなる。

 4月には大坂表(本願寺)に信忠を総大将に丹羽・滝川・明智が参陣していて、その後、丹羽・滝川・明智は丹波の荒木城を攻め降伏させている。

 どうやらこの頃は、三将が信長直属の遊撃隊として活動をしていたようだ。長秀は信長の重臣として日常的に近習していたと思われ、一益は伊勢長島一向一揆が鎮圧されてからは、信長の近くで活動していたようである。光秀も、もともと畿内を担当していたことから、信長にとって、この三将は信頼が篤く使い勝手が良かったのであろう。

 

 毛利勢が播磨に来襲したとの報告を受け、4月中旬、荒木村重が急遽、救援のため出陣している。

 信長は5月1日、自ら播磨に出陣すると言い出し、重臣たちを慌てさせるのであった。信盛、一益、蜂屋、光秀らが播磨は難所が多く危険であると説得する。そこで滝川、丹羽、明智が先行して播磨に向かい、信忠が本隊を率いて出陣することになったようである。

 

 4月29日、予定通り滝川、丹羽、明智が先陣として出陣し、5月1日には信忠が総大将として2万人の兵力で播磨に向かった。

 

 信忠は三木城の西にある神吉城、志方城、高砂城を包囲し、丹羽・滝川・明智勢は秀吉救援に向かったのであった。

 このままでは毛利勢に包囲された上月城には救援を送れなかったため、6月16日、秀吉は信長の指示を仰ぐために上京する。

 しかし、播磨平定を目指する信長は三木城攻略を最優先とした。結果として上月城を救援することはなく、事実上、捨て置かれたのであった。

 見るに見かねた秀吉は尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出したというが、尼子主従はこれを黙殺し、徹底抗戦を選んだようである。

 7月3日、尼子勝久、氏久、通久らが自害し、上月城は陥落した。忠臣山中幸盛も殺害され、名門・尼子氏は完全に滅んだのであった。