三宅弥平次 (81)

 

 

「三木戦記」

 

 『天正六年 二月二三日 秀吉、再び播磨に入り、糠谷(加須屋)武則の加古川城に國内諸城主を出仕せしめる。長治叔父執権別所吉親(賀相)・家臣三宅治忠等を派遣する。治忠作戦を説くも、秀吉之を用いず、吉親・治忠怒って帰り長治に説く。長治、毛利氏に通じて東播の諸城に檄し、三木城(釜山城)を修して秀吉に叛する。秀吉之を知り書寫山圓教寺の十地坊に本陣を移す。』

 

 

 毛利勢が6万の兵で上月城を囲ったと聞いて、秀吉は信長に救援を依頼した。当時、上月城には尼子勝久山中幸盛(鹿介)が旧尼子家の牢人を率いて籠城していたのである。信長は、まず荒木村重を救援に向かわせ、ついで滝川、明智勢を派遣することにした。信長は自らの出陣も考えたが、佐久間信盛に止められ、代わりに織田信忠を派遣することにしたのである。

 

 秀吉は先遣隊として到着した村重と高倉山に布陣したが、総勢1万人では毛利の大軍の前に歯が立たなかった。

 秀吉は加古川城に東播磨の諸将を集めたが、その横柄な態度に諸将は激怒し、別所長治は毛利方に寝返り、三木城に籠城した。

 その後も長治に同調して毛利方に寝返る者が続出した。播磨諸将は上月城の虐殺にも強く反発しており、秀吉は自らの不徳で敵中孤立することになったのである。

 この後、さらに滝川・明智隊信忠の播磨増援軍が到着したが、播磨諸将の離反になすすべもなく、増援の織田勢は撤退した。

 

 長治が籠城した三木城には東播磨から7,500名もの人が集まった。国衆のみならず門徒衆やその家族までもがいたので、多くの糧秣が必要であった。このため三木城の支援には海上から大量の兵糧を陸揚げして運び込んでいたのである。

 

 畿内を転戦する光秀に代わり、丹波には弥平次斎藤利三が在陣していた。一方、長閑斎は城代として坂本城にいたのである。この頃になると長閑斎は前線に出ることが、ほとんどなくなり、次将としての役割は弥平次が担うようになっていた。

 

 天正6年(1578年)3月、悪右衛門と言われた赤井直正が病死する。直正は黒井城の戦いの後、信長に詫びを入れて、赦免を受けていた。

黒井城の戦いに敗れ、九死に一生を得た光秀ではあったが、その後も直政に対して調略を進めていた。今の織田家に反抗しても先行き良いことはないと説得し、ついに恭順させることに成功していたのである。黒井城は嫡男・赤井直義が継ぎ、叔父の幸家が後見することになった。

 

 4月、光秀は滝川・丹羽勢の支援を受け荒木城を降伏させる。城主・荒木氏綱は光秀から仕官の要請を受けるも敗軍の将として断り、代わりに息子・氏清を出仕させることにした。氏綱はその後、光秀の配下となったようで、弥平次の部隊に属したようである。

 

 

別所長治像