三宅弥平次 (80)

 

 

 

「信長公記」

 

 『戊寅二月三日、磯野丹波守、上意を違背申し、御折檻なされ、逐電仕り、則ち、高島一向に津田七兵衛信澄、仰せつけられ候なり。戊寅二月九日、吉野の奥山中に磯貝新右衛門隠居仕り候を同地の者、頸を切り、安土へ進上致し候。ご褒美として黄金下さる。一度御憎を蒙り候の者、御存分に属さずと云うことなし。

 戊寅二月廿三日、羽柴筑前守秀吉、播州へ相働く。別所与力、嘉古川の、賀須屋内膳、城を借り、羽柴筑前人数入れ置き、秀吉は書写山に取り上り、要害を構え、居陣なり。然る間、別所小三郎存分申し立て、三木城へ盾籠るなり。』

 

 姉川の戦いで勇猛ぶりを発揮し、佐和山城で孤立無援の戦いをしていた浅井家の重臣・磯野員昌は、信長に降伏すると高島郡を与えられるという破格の待遇を受けた。その後も織田家の家臣として武功を重ねたが、天正6年(1578年)2月3日、信長の意向に逆らったとして叱責を受け逐電した。

 

 もともと、信長の甥・津田信澄を嗣養子とすることを条件にしていたため、高島郡はそのまま信澄に与えられた。この信澄の正室が光秀の四女である。

さらに信澄は光秀の縄張りによる水城・大溝城を築くことになる。これにより「坂本-安土-長浜-大溝」という琵琶湖のネットワークが完成した。信澄は連枝衆として信長に重用され、信忠配下の武将としても活躍している。

 

 摂津有岡城の荒木村重は西播磨の豪族から人質を取るなど、播磨の工作を推進し、毛利に与する宇喜多直家と対立した。天正3年(1575年)村重が後援していた浦上宗景が天神山の戦いに敗れる。直家の脅威にさらされた播磨衆・小寺政職(御着城)別所長治(三木城)、赤松広英(龍野城)らが信長に臣従した。

 

 毛利家は織田家との対決に慎重であったが、本願寺が信長に屈すると、その矛先が中国に及ぶと判断するようになった。毛利家は雑賀衆と連携し、本願寺を支援し、毛利水軍を結集して木津川口織田水軍を破った。

 

 信長と断交した毛利家は東進を開始する。山陽道は小早川隆景、山陰道は吉川元春が担当し、天正4年(1576年)には播磨に侵入し、上月城にまで兵を進めたのである。3月には龍野城の赤松広英が毛利方に寝返り、毛利勢は姫路に迫った。しかし、ここで姫路山城の小寺官兵衛(黒田孝高)が毛利勢を撃退したのであった。

 天正5年(1577年)10月、毛利家の播磨侵攻に脅威を感じた信長は、北陸遠征から長浜城に帰城したばかりの羽柴秀吉中国方面の指揮官に任じて播磨に派遣した。秀吉は黒田孝高の居城・姫路山城を拠点に播磨・但馬を転戦することになる。

 秀吉は調略を用いて播磨の国衆から人質を取り、僅か1カ月余りで西播磨を支配下に置いた。しかし上月城赤松政範は直家と連携して秀吉に対抗したため、秀吉は上月城を包囲した。秀吉は赤松救援のため後詰に来た宇喜多勢も退けたため、万策尽きた政範は自害した。秀吉は降伏を許さず、城内の将兵、女、子供悉く処刑したのであった。

 秀吉は播磨一国を僅か2カ月で攻略し、近江に凱旋すると、信長はその働きを褒め称え、褒賞を与えたのであった。

 

 このように順調に中国攻略を進めていた秀吉であったが、天正6年(1578年)毛利輝元は本格的に反撃を開始する。上月城奪還を目指す毛利勢は輝元が備中松山城に本陣を構え、元春、隆景の両将が6万人もの大軍で上月城を囲ったのであった。

 

 

 黒田孝高像