三宅弥平次 (79)

 

 

 天正元年(1573年)7月、村井貞勝京都所司代となった。しかし当時はまだ、明智光秀を始め松井友閑や武井夕庵、塙直政等の信長側近の官僚が行政に深く関わっていた。特に光秀は武官でもあったので、治安も担当していたのである。

 しかし京都での信長の治世が続き官僚組織が整うと、貞勝が行政の中心となり、光秀は軍人としての働きが大きくなっていった。

 そのため庄兵衛は次第に京都の明智屋敷から離れ、光秀の側近として行動を共にすることが多くなる。京都で行政に長年、携わった庄兵衛の人脈は相当なもので、光秀の貴重な情報源の一つであった。

 

 因みに庄兵衛は正式には「三沢小兵衛秀次」である。ただ外に「昌兵衛」とか「勝兵衛」とか「惣兵衛」とか呼ばれていて、どれが本当なのか良く分からないのである。よって、ここでは「庄兵衛」で通すことにする。

 

 また、信長の側室となった義妹の妻木殿から得られる情報も重要であった。光秀は他にもこまめに書状のやり取りをしたり、小者を走らせたりと様々の方法で情報を集めていたのである。

 

 天正5年(1577年)11月20日に、信長は従二位・右大臣となり、さらに翌年には正二位となっている。

 

 丹波攻めを再開した光秀は10月には籾井城を攻めて、11月には落城させた。さらに光秀は天正6年(1578年)3月には波多野秀治が籠る八上城を包囲した。兵の損耗を恐れて、敢えて力攻めを避け、兵糧攻めにすることにしたのであった。

 

 陣中、少し酒が入ったところで庄兵衛は話し始めた。

 「なぁ、お前ら、おつやの方の最期を知っているか。」と言った。

 「ああ、確か、逆さ磔になったと聞いたぞ。女人の身で惨い事だと言われていた。」と伝五は答えた。

 「そうなのだが、これは人伝に聞いた話だから、言うべきかどうかと…。」

 「いや、そこまで言うなら話してくださいよ。」と次右衛門が言う。

 「うむ、それがな、逆さ磔にされたおつやの方が上様に向かって罵詈雑言を浴びせたのよ。それでも上様は冷笑していたのだが、…。」と言うと庄兵衛は一気に酒を飲み干すと、

 「武田の大軍が来た折に後詰にも来ないで、女の身一つで何ができるというのか。大方、信玄が恐ろしくて腰でも抜けていたのであろう。お前の言う通りにどんな馬の骨とも婚姻を重ねたのに、血を分けた叔母にこのような仕打ちをするとは、血も涙もないとはこの事だ。貴様の子々孫々まで呪い殺してやるから覚えていろ、と言ったという。」

 「それを本当に上様に言ったのか。」と一同、息をのむ。

 「あぁ、すると上様は立ち上がり、小姓から太刀を取り上げると“よし、分かった、たった今、ここで楽にしてやる”とおつやの方に向かって歩き出した。周りは止めようとしたが、何せ抜身の太刀を持っているので恐ろしくて近づけない。上様がすぐ側までくると、おつやの方が狂ったように高笑いを始めた。そこで上様は、一刀両断にてその首を刎ねたのさ。逆さに吊るされた女の首を刎ねたから、忽ち辺り一面に鮮血と共に五臓六腑までもが飛び散り、まさに地獄絵図よ。上様は全身血まみれになって周囲を睥睨したという。周りの人々はその余りの恐ろしさに、言葉もでなかったそうだ。」

 

 弥平次は、うんざりした顔で庄兵衛を睨むと、

 「庄兵衛、酒がまずくなる。」と吐き捨てた。

 

 一方、明智勢が八上城を囲んでいたその時、播磨では大事件が起きていたのである。

 

村井貞勝像