三宅弥平次 (78)

 

 

「信長公記」

 

 『十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間、羽柴、惟任、惟住、諸口仰せつけらる。信貴の城へ攻め上げられ、夜責めにさせられ、防戦。弓折れ矢尽き、松永、天主に火を懸け、焼死候。』

 

 手取川の戦いの後、謙信は春日山城に引き返した。朝倉氏もそうであったが、北陸は豪雪地帯のため冬の行動には大きな制約があったのであろう。信長は反攻に出る貴重な時間を得た。

 

 信長は嫡男・信忠総大将に加賀遠征軍を中心に4万人の援軍を信貴山城に送り込んだ。人質にしていた久秀の孫二人を六条河原で斬首すると総攻撃を始めたのであった。

 

 徹底抗戦で一旦、織田勢を撃退した久秀は、本願寺の顕如に援軍を依頼するように家臣・森好久に命じた。好久は城を出ると順慶の武将・松倉重信のもとに行き鉄砲衆200名を借り受けると、素知らぬ顔で帰城した。

 「本願寺から鉄砲衆200名の援軍を得た。さらに毛利勢からも援軍が来る。」と報告すると、久秀は大いに喜んだ。

 

 天正5年(1577年)10月10日、織田勢の先鋒となった順慶は松永勢と激しい戦闘を行った。すると三ノ丸辺りから突然、火の手が上がったという。好久率いる鉄砲衆が城内から反乱を起こしたのである。かくして松永父子はその波乱に満ちた生涯を終えたのであった。

 

 光秀は信貴山の戦いに伝五、庄兵衛、次右衛門を連れて行った。この度の主力は大和の筒井順慶であり、光秀と藤孝は言わば援軍であったのだ。一方、丹波には長閑斎、弥平次、斎藤利三が残っていた。

 

 口丹波と呼ばれた亀岡盆地は京都にほど近く、丹波攻略を目指す明智軍には絶好の立地であった。同時に敵対する勢力からは狙われる危険があったため、一定の兵力を駐留させる必要があったのだ。光秀は国衆の長澤又五郎に惣堀の普請を命じていて、着々と築城を進めていた。

 

 「敵前の築城とは思えぬ、これはかなりの大普請となりますな。」と守備隊を率いる利三は普請の規模の大きさに驚いたようである。

 弥平次は頷くと、「殿は一時的な攻撃用の城ではなく、城下町を伴う惣構えの城を建てるつもりです。町人などをこの町に呼び込み、ここを丹波の中心となさるおつもりです。」と言った。

 さらに弥平次は「ここに三層三重の天守とそれに連結した小天守も作るつもりです。」と図面を見せた。

 「弥平次殿は坂本城もお作りになったと聞き及びましたが、見事な物ですね。私は野戦ばかりで城など作ったことがない。うらやましい限りです。」と感心して言う。

 「いや、最初は私も殿と父から叱られてばかりで、何度も図面を描きなおしました。大層勉強させてもらいました。」と弥平次は言った。

 

 丹波亀山城は小高い丘に造られた平山城で、北側は保津川と沼地によって守られている。それぞれの曲輪は保津川から引いた水堀で周囲を囲い、さらに城の外側には、ぐるりと惣構えの堀が巡らせてあった。南側には商業地が広がるように区割りを配していて、完成すれば大きな城下町が出来上がるはずである。

 

 この城が完成すれば丹波における明智家の第二の居城となる。京都を挟み北東に坂本城。北西に亀山城、まさに京都を制する明智家の両翼となるのである。

 

信貴山朝護孫子寺