三宅弥平次 (77)

 

 

「落首」

 

「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」

 

 七尾城に籠った畠山氏であったが、領民まで入城させたため、城内は不衛生な状態となり、疫病がまん延するに至った。城主の春王丸までがわずか五歳で感染症により病死すると、城内を取仕切っていた重臣・長続連に対する不満が爆発する。遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が蜂起し、長一族を皆殺しにすると謙信に降伏した。

 

 謙信はさらに末森城を落とし、手取川北方の松任城に入ったのである。この間、謙信は人の往来を堅く禁じ、怪しいものは斬り捨てた。このため織田勢は七尾城陥落を含め、戦況を全くつかめていなかったのである。

 

 上杉勢の接近に気が付いていない勝家は、全軍で手取川を渡河した。そこでようやく七尾城が陥落したこと、松任城に謙信がいることを知ったのであった。驚いた勝家は全軍に退却を命じたが、時すでに遅かったのである。織田軍が手取川を退却中に謙信本人が8千の兵を率いて追撃し、織田軍は千人の死傷者と多くの溺死者を出して大敗したという。

 

 さて、織田勢は手取川を渡河した後、布陣したので、結果的に「背水の陣」となった。漢の名将・韓信の用いた有名な「背水の陣」は必勝の戦術であったが、勝家の「背水の陣」は必敗の陣となってしまった。これは戦場に於いて情報が何より大切であることを教えてくれる。

 光秀、秀吉、一益などはこの情報戦を得意としている。浅井長政が裏切った時、光秀は早くからその行動を注視していた。秀吉もまた、毛利攻めの際も常に京都の情勢を探っていた。一益に至っては自身が忍者出身ではないかと言われているほどである。この三人に比べると、この度の勝家は情報戦で既に謙信に負けていたのであろう。

 

 そして、謙信は敵軍が渡河している好機を逃さず、旗本8千人で急襲した。これを「半渡に乗ず」といい、韓信が斉国を攻略するときに用いた戦術である。大軍であっても川で分断された敵を討つことは容易であり、斉の援軍に来ていた楚の勇将・竜且はこの策で敵中孤立し、韓信に敗れ去ったのである。日本の軍記物には、このような韓信の故事がよく出てくる。

 さて、手取川で上杉勢が勝ったことは間違いなさそうであるが、実は手取川の戦いの詳細は、よく分かっていないのである。

 

 天正5年(1577年)12月、謙信は意気揚々と春日山城に入る。23日には次回遠征の大号令をかけたという。信長包囲網に参加した人々にとって、謙信は希望の星となった。しかし、翌年3月、謙信は脳梗塞で倒れ、帰らぬ人となった。実にあっけない最期である。さらに上杉家ではその後内紛が起き(御館の乱)、その勢力を大きく損ねたのである。

 

 これによって事実上、第三次信長包囲網は瓦解し、もはや信長に抵抗できる勢力はいなくなった。信長は敵勢力を一つ一つ各個撃破して行けば、おのずと天下統一は実現できるところまで来たのである。

 

『芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎』(月岡芳年作)