三宅弥平次 (74)

 

 

「美濃国諸旧記」

 

 

 『然るに一鉄斎は、勇猛の剛将たる故に、生涯の内には、不義不仁の事多かりけるとなり。傍友安藤伊賀守、信長の意に違い、居城鏡島を改易せられ、濃州を追放の砌、稲葉は、郎等をして鏡島に遺し、狼藉をさせしなどの事共、以ての外の不道なり。夫故に、其臣、斎藤内蔵助利一・那波和泉守等之を憎みて、稲葉の家を出でて、明智光秀に仕えし事などあり。其外斎藤を背きて、織田家に身を寄せし事も、天下国家の爲と雖も、實は非義の振舞なり。』

 

 頑固な人間をよく「一徹者」という。その語源となったと言われているのが西美濃三人衆の一人、稲葉良通(一鉄)である。先祖は伊予国の河野一族というから、元々は土岐氏や遠山氏のような美濃の一族ではなかったようだ。祖父の代に所領を失い流浪したそうで、物乞いのような生活もしていた。一鉄は幼少期に崇福寺に預けられ快川紹喜の下で修業をしたという。しかし父兄弟が全員戦死したため還俗して稲葉家を継いだようである。

 

 始めは土岐頼芸に仕えていたのだが、追放後は美濃国主となった道三に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍した。実は道三の愛妾・深芳野は一鉄の姉である。つまり義龍は甥であるため、長良川の戦いで義龍側に付いたのは致し方ないであろう。当然、正室であり明智一族であった小見の方とは折り合いは良くなかったはずだ。

 しかし、一鉄は義龍の子・龍興の代になると諫言しても行状の改まらない主君に愛想が尽きたようで、美濃侵攻を進める信長に臣従するようになる。こうしてみると「頑固一徹」という割には、世渡りは実にうまいのである。

 

 織田政権下では美濃三人衆筆頭の重臣として扱われている。元亀元年(1570年)5月、金ヶ崎の退き口では斎藤利三と共に守山城に籠り、一揆勢と激闘し、信長から感状を受けている。

また姉川の合戦では浅井勢と戦い、信長本陣を守っている。数々の軍功を挙げている一鉄だが、家中ではやはり頑固者であったらしい。

 

 美濃斎藤家利三は西美濃の国人で奉公衆でもあったというから、稲葉家にとって与力であったろう。利三は優れた武将であったため、一鉄は娘を嫁がせている。いわば一門衆と思っていたのだろう。

 

 しかし利三はあくまでも斎藤家の当主であり、稲葉家の家臣とされることに不満があったのではないか。働きの割に斎藤家の処遇が悪いと不満を漏らすようになる。ここで一鉄の頑固さが現れる。やがて両者は関係が悪化し、利三は稲葉家を出奔する。無論、斎藤一族を引連れて出て行ったのであるから、稲葉家としては大打撃である。

 一鉄は利三を仕官させないよう織田家中に触れ回ったらしい。俗説では三度出奔するも二度引き戻されているという。しかし三度目は同じ美濃の出世頭・明智光秀を頼ったため、ついに引き戻せなかった。東美濃の明智家とは元々折り合いが悪かったはずである。

 

 利三は一鉄の娘を娶っているが、光秀とも親戚である。利三の母は光秀の妹の子であるという。「当代記」には利三を「信長勘当の者」としているため、相当なトラブルがあって、主君の耳にまで入っていたのであろう。

 

 しかし現実には重臣・光秀の家臣であり、長曾我部との外交にも活躍しているので、信長は最終的には許していたと思われる。ただし、頑固者の一鉄が許していたとは思えず、根に持っていたことは想像に難くない。

 

 斎藤利三がいつ光秀に仕えたのかは分かっていない。天正6年(1578年)とも天正4年(1576年)とも言われ、早いものでは元亀元年(1570年)という説もある。

 最初は信長の勘気を被り、光秀に匿われていたとも言われるため、良く分からないのであろう。いずれにしても光秀の家臣として表舞台に出てくるのは天正4年頃であろう。

 

 

 稲葉良通像