三宅弥平次 (71)

 

 

「美濃国諸旧記」

 

 『光秀に子数多あり。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信の娘にして、千草という美婦たりし。光秀、部屋住になりてありける砌、遊客となりて山岸の許に来たり。桂の郷の下館に暫く住しけるが、倶に若年も頃なる故に、密通して設けたる長男なり。是に依って明智氏の家督ならず、氏を憚り、母方の氏を用いて西美濃に住し、子孫は郷士となりてありける。(中略)外に養女あり、盛姫という。嫡家光重の室なり。実は是れ土岐蔵人助盛秀の娘なり。古今稀代の英婦にして、光秀・光重に後れてより後、自ら大義を志して、国々の諸大名を語らいて、羽柴の世を傾けんと欲したる烈婦なりける。』

 

 その時、光信は「生きていれば、これより辛いことは幾らでもある。今はこの恥辱に耐え、いつか名を成せるよう精進せよ。」と言った。

 光秀は恩人を裏切り、愛しい人を傷つけたまま、家を後にした。30年近くたっても、あの日のことは忘れられない。光秀の腕の中で震えていた細い肩を思い出すたびに、苦しくて叫び声をあげそうになる。若くて未熟であることは何と罪なことであろう。光重をそばに置くことは罪滅ぼしなのだろうか。光重の儚げな面差しに千草の幻を見ているのかも知れない。

 

 症状が緩和して坂本城に戻った光秀ではあったが、明智家の不幸はまだ終わっていなかったのである。

 

 一方、天王寺砦の戦いで勝利を収めた信長であったが、石山本願寺との戦いは続いていた。難攻不落の本願寺に勝利するためには兵糧を断つ以外にないのである。今や本願寺の命綱となった毛利氏の兵糧搬入を止めるには、とにもかくにも木津方面を抑える必要があったのだ。

 

 天正4年(1576年)7月15日、淡路島を出立した毛利水軍800艘は木津河口で九鬼嘉隆率いる織田水軍300艘と海戦を行った。毛利水軍には無敵と言われた海賊衆「村上水軍」がついていた。村上水軍は「焙烙玉」という手投げ爆弾と火矢を用いて、織田水軍の船を次々焼き払っていった。この戦いで真鍋貞友、沼野伝内が戦死したのであった。

 

 陸上でも天王寺砦佐久間勢が楼岸砦から出撃した本願寺勢と激戦を繰り広げたが、結局、敗走し兵糧搬入を阻止できなかった。

陸戦、海戦ともに敗れた織田勢は戦略を根本的に練り直す必要が生じたのである。

 信長は九鬼嘉隆に「焙烙玉にも燃えない船」の建造を命じた。

 

 

因島村上水軍城