三宅弥平次 (53)

 

 

 

「信長公記」

 

 

 『明智城のいゝばま謀叛の事

 正月廿七日、武田四郎勝頼、岩村口に相働き、

 明智の城取り巻くの由、注進候。則ち後詰として、

 二月朔日、先陣、尾州・濃州両国の御人数を出され、

 二月五日、信長御父子御馬を出され、其の日は、三たけに御陣取、次の日、高野に至りて御居陣。翌日、馳せ向かわざるべきところ、山中の事に候間、険難・節所の地にて、互いに懸け合いならず候。山々へ移り、御手鑓なさるべき御諚半ばのところ、城中にて、いゝばさま右衛門謀叛候て、既に落去。是非に及ばず、高野の城御普請仰せ付けられ、河尻与兵衛を定番として置かれ、おりの城、是れ又、御普請なされ、池田勝三郎を御番手にをかせられ、』

 

 

 天正元年(1573年)12月、光秀信忠と共に多聞山城を囲っていた。

 

 多聞山城の松永久秀は2月に挙兵した義昭と和睦し、信長から離れ独立した。しかし、4月に信玄が死に、7月に義昭が追放され、11月に三好義継が敗死すると、畿内で孤立してしまったのである。

 

 12月末、もはや勝ち目がないと判断した久秀は、織田勢に多聞山城を引き渡して降伏した。信忠と光秀は、退去後の多聞山城に入り、戦後処理をしていたのである。

 光秀はこの若くて勇敢な御曹司を大層気に入っていた。信忠も年長の光秀を深く信頼し、偉ぶることもなく素直に接していた。生まれつき聡明で、育ちが良く、それでいて威厳が伴っている。誠に良き後継者であった。

 

 天正2年(1574年)正月末、信長から早馬が来た。勝頼が兵3万を率いて東美濃に侵攻した、直ちに岐阜に参陣するように、とのことである。

 信玄の死後、喪に服していた武田勢がついに動き出したのであった。

 

 「まさか、東美濃とは…」

 光秀は武田が動くなら、東遠江であろうと予測していた。勝頼本隊が3万人で東美濃とは、全く予想外であった。光秀の胸に上村合戦が苦々しく蘇る。あの時は、後詰が間に合わず、叔父・遠山景行を死なせてしまった。何としても二の舞はできないのである。

 

 明智遠山氏は上村合戦で大きな被害が出ていて、城主・一行、後見人として城代・友治以下、老兵が300名ほどしかいなかった。このため信長は岩村城の抑えとして重要な明知城に、坂井越中守の援軍200名を入れていたのである。

 

 恵那郡史には、勝頼の侵攻について次のように記載している。

 

 「天正二年二月中旬、勝頼は父の遺図を挽回しようと攻勢に出た。4月中旬までに東美濃の苗木・中津川・今見・阿寺・大井・神箆・妻木・串原等の城砦を陥れ、明知城を包囲した。城主遠山民部友治(宗叔の子)死守して、急を信長に報じた。信長信忠と共に明知を援けようと自ら出馬した。美濃の諸将、池田・蜂屋・河尻・森・塚本等兵三万。武田勢の山縣昌景は六千の兵で鶴岡山の麓を廻り、信長の進路を遮る。信長は上道三里退いて陣を敷くと昌景は中途で追撃を止めた。既に明知城は陥落して友治は戦死していた。勝頼は川中島衆によって飯羽間城を攻めさせた。信長から付けられた援軍十四騎は討死して、城将・飯羽間右衛門佐信次、捕らえられる。神箆・小里両城を修理して河尻等に守らせ岩村の抑えとした。勝頼は五月には兵を退き、高天神城を囲った。」(要旨)

 

 「信長公記」においては明知城内の飯羽間右衛門の謀叛により、明知城が陥落した、となっている。しかし、恵那郡史においては、飯羽間右衛門佐信次は飯羽間城で武田勢と戦っているのである。

「甲陽軍鑑」によると「いひざまの城へ信州河中島衆の内三備をもって取り詰めらる、ただ、一時にいひざまをせめおとし、信長より警護に置かれた十四騎の武者討取り、いひざま右衛門を本城の蔵へおし込、生捕て進上申候間勝頼公機嫌あさからず候。」とある。

 飯羽間城に籠っていた右衛門が明知城にいるはずもなく「坂井の援軍を殺し、門を開けて武田勢を引きいれた。」というのは濡れ衣かも知れない。

 

 しかしながら、蔵に閉じ込められていた飯羽間右衛門を勝頼が気に入り、信濃に知行まで与えたというのは不審である。

 右衛門が具体的にどのような行動をとったのかは分からない。しかし、警護の兵士が全員死亡しているのに、右衛門だけが生け捕りにされているのだ。

 「信長公記」が謀叛としているのであるから、当時の信長はそのように判断していたのであろう。

 

 多くの家臣が犠牲になった坂井越中守は、この時の恨みを忘れなかった。甲州征伐の際、飯羽間右衛門を探し出し、その子供と共に処刑したのであった。

 

 飯羽間城諸将士三界萬霊塔(一の曲輪跡)(史跡探訪記様より)