三宅弥平次 (52)

 

 

 

 

「信長公記」

 

 『前波生害、越前一揆蜂起の事

正月十九日、越前の前波播磨、国中の諸侍どもとして、生害させ候由、申し来たり候。子細は越前の大国守護代として居え置かれ候ところに、栄花栄輝を誇り、恣に相働き、傍輩に対し、万事に付きて無礼至極に沙汰致すの条、諸侍謀叛を企て、生害させ、其の上、国端境目に要害を構え、番手の人数を置き、其の後は、越前一揆持ちに罷りなるの由に候。羽柴筑前守、武藤宇右衛門、丹羽五郎左衛門、不破河内守、同彦三、丸毛兵庫、同三郎兵衛、若州衆、敦賀まで御人数差し遣わさる。』

 

 

 越前国の守護代となった桂田長俊(前波吉継)は、旧朝倉家では特に重臣という訳ではなかった。しかし、織田家の後援を受けたことで尊大になり、かつての上司・同格の者に対して、万事について無礼至極となった。

 長俊とともに朝倉家を裏切った富田長繁は、長俊ばかりが権力を掌握したことを妬み、これを滅ぼそうと企てて、土一揆を起こさせた。

 

 長繁の一揆勢は何と三万人にもなり、1月19日には一乗谷を攻略した。守護代・桂田長俊は、この時失明していたと言われ、抵抗も出来ぬまま討死したのであった。勢い、一揆勢は信長が派遣した3人の奉行も襲撃した。

 

 朝倉景健は刀根坂の戦いで奮戦し、義景の逃亡を助けた。義景が景鏡に騙され、朝倉家が滅ぶと信長に降伏する。信長はその本領を安堵し、姓を「安居」と改めさせた。「朝倉」では後々、困るだろうとの配慮である。

 ところが、景健は一揆が起きると今度は一揆勢に降伏する。さらに一揆勢が織田方の三奉行を殺そうとすると、慌ててこれを止めた。信長との関係を完全に破綻させるべきではない、と考えていたのである。景健は将来の信長との連携の可能性を残すべきだと長繁を説得した。そして何とか両者を調停すると3人を岐阜に帰すことで合意したのであった。

 

 一揆勢の次の目標は大野郡の土橋信鏡(朝倉景鏡)である。一揆勢の中にも信鏡を嫌悪するものが多かったのである。信鏡も自分が多くの人に嫌われていることを知っていた。一旦、平泉寺に籠り、抵抗するが、やがて自らの運命を悟ると数騎で突撃して、一揆勢に討取られた。

 

 長繁は更に、魚住景固を謀殺し、滅族させる。すると、これに一揆勢が不信感を抱くのである。魚住一族は長俊と異なり、領民に慕われ評判が良かったのだ。

 やがて一揆勢の中で「長繁は密かに信長に接近している。」との噂が流れる。一揆勢は、長繁が長俊に取って代わろうとしているのではないかと疑い出した。

 

 越前の変を聞いて、光秀は岐阜に庄兵衛を迎えに行った。すると別人の如く庄兵衛は憔悴していたのであった。

 「申し訳ございません。上様からおしかりを受けました。私は殿の顔に泥を塗ってしまいました。」とその場にひれ伏し、肩を震わせた。

 慌てた光秀は必死に慰める。

 「庄兵衛を派遣したのは私だ。だから私の責任である。まさか守護代が、あのような者であるとは私も分からなかった。苦労を掛けて済まなかった。庄兵衛、まずは帰ろう、一緒に京都に戻ろう。」と光秀は目に涙を浮かべて庄兵衛の肩を抱いた。

 

 万事、冷静で冷淡な「外向きの光秀」と、人を思いやる慈愛溢れる「内向きの光秀」とは、まるで別人のようである。長く続いた苦難の時代も一族・郎党と共に光秀は生きてきた。明智家にとって、この家臣こそ財産なのである。

 どれほど辛い勤めであっても、光秀は挫けることはできない。光秀には守るべき家臣たち帰るべき場所がある。思えば山崎の戦いに敗れて滅亡の時を迎えても、光秀の譜代の家臣で裏切ったものは一人もいない。彼らは最後まで一心同体であったのだ。

 

 越前 平泉寺