三宅弥平次 (51)

 

 

 

「信長公記」

 

 

 『十月廿五日、信長、北伊勢より御馬を納められ、左は多芸山、茂りたる高山なり。右手は入川足入り多くありて、茂りたる事、大方ならず。山下に道一筋めぐりまわって、節所なり。信長、のかせられしを見申し、御跡へ河内の奴原、弓・鉄砲にて、山々先々へ移りまわり、道の節所を支え、伊賀・甲賀のよき射手の者ども馳せ来たりて、さしつめ、引きつめ、散々に討ちたおす事、際限なし。雨つよく降りて、鉄砲は互いに入らざるものなり。』

 

 

 9月1日、浅井長政が小谷城内で自害した。信長は、横山城における長年の功績により江北の旧浅井領を羽柴秀吉に与えた。

 9月4日には佐和山城に移り、六角氏が籠る鯰江城を柴田勝家に攻めさせた。六角義治はすぐに降参して甲賀に逃げた。さらに、佐久間信盛が甲賀郡の北部の菩提寺城、石部城も包囲したので、六角勢は大きな打撃を受けた。

 

 9月6日、岐阜に戻った信長は、いよいよ練りに練った作戦に取り掛かる。浅井攻めの頃から信長は水軍について考えていた。まず光秀に琵琶湖の北岸を攻撃させて、水軍の威力を把握した。浅井方は沿岸のすべてを守ることはできず、船からの攻撃を真面に防ぐことができなかったのである。

 木戸城・田中城攻めでは自ら船に乗り水軍の指揮を試みた。信長にとって実に満足のいく成果であった。

 信長は弟・信興を殺した一揆衆を決して許さなかった。その復讐を片時も忘れはしなかったのである。この時、信長の頭の中には、伊勢長島を船で包囲する数多の織田軍船が、ありありと見えたのだ。

 

 信長は次男・北畠具豊(織田信雄)を伊勢大湊に派遣して、船の調達を命じた。ところが、大湊の会合衆は信長の要求を渋ったのである。信長はさらに、北畠具教、具房にも働きかけ会合衆の説得を続けたが、それでも不調であった。

 

 9月24日、大湊からの朗報を待ちきれず、信長は北伊勢に出陣した。やがて田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、佐久間信盛、蜂屋頼隆等、諸将が集まり、数万の兵が揃った。

 26日、秀吉、長秀、頼隆が西別所城を攻略、10月6日には勝家、一益が坂井城を落とした。

 信長も東別所に陣を移すと北伊勢の国人は相次いで人質を出して降伏した。白山城を陥落させたものの、大湊の船はついに現れず、10月25日、矢田城に一益を入れると帰陣することになった。

 

 織田勢は退却時に多芸山で一向衆や雑賀衆等の待ち伏せを受ける。殿軍となった林通政が討死した。信長は一揆勢の逆襲で、またしても重臣を失ってしまったのであった。

 

 信長は岐阜に帰陣後、直ちに大湊を調べさせた。すると会合衆たちは織田家より一揆勢に肩入れしていることが分かったのであった。さらに一揆勢の将・日根野弘就の要請に応じて船まで出していたことが判明すると、信長は激怒し、船を出した会合衆の福島親子を処刑した。一揆に加担するものは同罪であり、問答無用で処刑することを伊勢の船主に知らしめたのであった。

 

 「おのれ、坊主どもめ、次こそは皆殺しにしてやる。」と信長は唇をかみしめた。