三宅弥平次 ㊿

 

 

 

「朝倉氏と戦国村一乗谷」

 

 

 『さて、天正元年八月の刀禰坂の合戦では義景の多くの忠臣は戦死し、残りの家臣の中、信長の軍門に降った朝倉の旧家臣達は、そのまま旧領を安堵されて越前国を治めた。

 

足羽郡一乗谷 守護代 桂田長俊(旧姓 前波吉継)

南条郡府中  城主  富田長繁

大野郡土橋  城主  土橋信鏡(旧姓 朝倉景鏡)

今立郡鳥羽  城主  魚住景固

丹生郡織田  城主  朝倉景綱

丹生郡三留  城主  三富景信(旧姓 朝倉)

足羽郡安居  城主  安居景健(旧姓 朝倉)

坂井郡金津  城主  溝江長逸』

 

 

 織田勢の主力が小谷城攻めに南下する中、光秀は越前に残った。信長が急遽、光秀を呼んだのは、織田の残留部隊を指揮して越前の後始末をするためである。光秀にとって、ここは第二の故郷ともいえる場所である。

 かつて光秀が見上げるような存在であった朝倉の一族・重臣が、今では畳に額を擦り付けるように光秀に平伏している。それを心地よい、と思わないのが光秀である。むしろ冷静で事務的な対応が、周囲には恐ろしく冷淡に映るのであった。

 

 朝倉景鏡は長らく一族の筆頭として君臨した。しかし、加賀の陣では朝倉景垙を自殺に追い込み、金ヶ崎では朝倉景恒に後詰を送らず、この度の出陣には「疲労」を口実に出兵せず、最後に主人である朝倉義景を騙して自刃させたうえ、その家族を信長に差し出し、全員処刑させている。

 

 光秀は決して顔には出さないが、軽蔑憎悪を抱かずにはいられない。この後、景鏡は信長の勧めで「土橋信鏡」と改名した。あまりにも悪名が広がったためである。

 

 「日のもとに かくれぬその名あらためて 果ては大野の土橋となる」

 

 弥平次は焼け野原となった一乗谷を見ていた。明智家は外様であったので、繁栄を極めた一乗谷には住めず、東大味に居を構えたものだった。

 

 「こら、弥平次。感傷に浸ってる場合じゃねえぞ。」と突然、伝五が声を掛けてきた。

 「お前もそうだろう。若い頃はここでよく遊び惚けたものであった。」と弥平次が言うと、

 「うむ、あの頃からお前は年増が好きだったなぁ。」と伝五は余計なことまで思い出した。

 

 「小谷城が落ちた。木下様が抜け駆けをして京極丸に奇襲を掛けたそうだ。上様を相手に抜け駆けとは良くやるよなぁ。」と伝五は言う。

 「親父殿は木下様が嫌いでな。どうしてもあのような品格のない方は嫌いらしい。それよりお市様はどうなされた。」と弥平次が尋ねると、

 「上様は長政公大和一国を与える故、降伏しろと言ったらしい。しかし長政公はこれに応じず、お市様とご姉妹を城外に立ち退かさせ、自刃されたとのことだ。オレなら大和を貰うがなぁ。」と伝五が言うと、弥平次は大笑いをした。

 「大和は長年、松永様と筒井様が血で血を洗うような争いをしている。これをどうやって浅井の知行とするのだ。長政公は先刻お見通しだ。ただの甘言に過ぎない。」

 

 朝倉氏滅亡後の8月から9月までの間、光秀羽柴(木下)秀吉滝川一益の3人が越前を占領統治した。しかし当然のことながら、三人ともいつまでも越前にばかりは、いられない。信長は前波吉継桂田長俊と改名させて「守護代」として統治を行わせ、その上で監視役兼行政官として、それぞれが配下の代官を置くことになった。

 

 光秀は京都にいた溝尾庄兵衛を越前に呼び寄せ代官とした。庄兵衛なら長年、行政に携わって来たので代官として申し分ない。同様に秀吉は木下祐久、一益は津田元嘉を、越前の代官にした。ところで庄兵衛はこの頃から「三沢小兵衛秀次」という名前になっている。理由は良く分かっていない。

 

 京都には次右衛門妻木広忠、坂本には長閑斎弥平次、越前に庄兵衛、光秀の馬廻りには伝五が付いた。明智家は大忙しである。

 

 

一乗谷遺跡