三宅弥平次 ㊾

 

 

「信長公記」

 

 

 『八月十八日、府中龍門寺に至って、御陣を居えさせられ、朝倉左京大夫義景、我が館一乗の谷を引き退き、大野郡の内、山田庄六坊と申し候所へ、のがれ候。さしも、やむごとなき女房達、輿車は名のみ聞きて、取る者も取り敢えず、かちはだしにて、我先に我先にと、義景の跡をしたいて落ちられたり。誠に、目も当てられず、申すは中々愚かなり。』

 

 

 朝倉勢でも、その場に留まり、織田勢に立ち向かう者もいたが、信長の精強な馬廻衆はそれを次々と葬り去っていく。木之本あたりで織田諸将が追い着くと、あとは一方的な殺戮の場となった。

 朝倉勢の主力は刀根坂あたりで踏みとどまり、義景を逃すため最後の一戦を挑むが、結果は無残であった。この戦いで、朝倉景氏、朝倉景冬、朝倉景行、山崎吉家、斎藤龍興、鳥居景近等の有力諸将が討死し、織田勢がとった首級は三千を超えたという。こうして朝倉義景の直属軍は壊滅したのである。8月15日、義景は僅かな手勢で一乗谷に帰還したのであった。

 

 信長は敦賀に入ると二日間休息をとった。この時、西近江から光秀も駆け付けている。ここで信長は追撃に遅参した佐久間、柴田ら諸将を激しく叱責した。諸将は恥じ入り詫びるばかりであったが、あろうことか信盛は涙ながらに「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」(そうは言っても私たちより良い配下はそうそうおりません。)といって信長をさらに激怒させる。

 信長は信盛に直ちに所領没収を告げるが、勝家、光秀、前田利家の必死の取りなしによって信長も怒りをおさめ、何とか事なきを得たのであった。

 

 8月17日、信長は大軍を整えて、朝倉家から寝返った前波吉継を道案内に越前に攻め入った。

 

 義景のもとには誰も参陣せず、手勢は500人に過ぎなかった。一方、調略を進める秀吉のもとには多くの使者が訪れていた。500人では一乗谷は勿論の事、詰城にも籠れなかった。義景は自刃しようとするも、景鏡に止められる。

 景鏡は「お供しますので、一旦、私の所領、大野郡に引き籠り体勢を立て直しましょう。」と進言する。義景は感動して、素直に同意した。ところが、六坊賢松寺まで遁れると、忽ち景鏡の兵に囲まれてしまう。義景は「一乗谷で死ねばよかった。」と思ったが、後の祭りである。義景は近衆が戦っている僅かな時間で自刃したのであった。景鏡は義景の首を手土産に信長に降伏したのである。

 

 「それにしても、このような名だたる武将が何故、遅参などということになったのでしょうか。」と弥平次が尋ねる。

 「上様は、朝倉勢が撤退するという確信があったのだ。だから予兆であっても見逃さなかった。しかし、諸将は撤退に半信半疑であった。だから撤退がその目に見えるまで動けなかったのだ。」と長閑斎は言う。

 「なるほど、完全に相手の行動を見切っていたという事ですか。これはもはや神懸かりですな。」と弥平次が言うと、

 「うむ、これは天与の才だ。常人の理解を越えているのだろう。しかしながら、上様の御怒りを買った佐久間殿はこの先、御無事であろうか。」と長閑斎は懸念した。

 「朝倉家の最期は惨めなものでした。義景公は確かに優柔不断ではありましたが、決して単なる愚将ではなかったと思います。」と弥平次は言う。

 「上様は天のご加護を受けてお生まれになったのであろう。強いて言えば、あの姉川の折、何故、自ら全軍を率いて参陣されなかったかと思う。そして志賀の折も、山に登る前に乾坤一擲の決戦をすべきであった。それから先は時が経てば経つほど、見込みがなくなり、苦しくなるばかりであった。」と長閑斎は言う。

 「しかしながら、裏切った者も、何れは惨めな死にざまとなる。なぁ、弥平次、主家を裏切った家臣を誰が信用するか。軽蔑と嘲りの中で人は生きてはいけないのだ。よく見ておくのだぞ。」と長閑斎はしみじみと言った。