三宅弥平次 ㊽

 

 

 

「越州軍記」¥

 

 『義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ』

 

 

 7月26日、信長は大船に乗り高島郡の木戸城・田中城の攻城戦に参陣した。陸からは信長の馬廻衆で攻め立て、海からはこの大船で攻めたのである。両城は忽ち降伏し、退去した。信長は、この海戦に大いに満足したようで、両城を光秀に与えると、上機嫌で帰京した。

 

 7月28日、信長は朝廷に働きかけ、年号を元亀から天正に改元した。これは改元に抵抗していた義昭を追放することで実現したわけである。つまり朝廷が公式に織田政権を認めたという事でもある。そして、この頃から、信長の勘は冴えわたってくる。もはや神懸かりと言っていいほどであった。

 

 8月8日、山本山城の阿閉貞政が、秀吉の調略により織田方に降った。ここが勝機と踏んだ信長は、すぐさま三万の兵力で小谷城を包囲した。相次ぐ造反に孤立した長政は、義景に救援を求める他なかったのである。

 義景は直ちに近江に援軍に出ようとしたが、既に朝倉家は義景の下知に従わなくなっていた。度重なる出兵に厭戦気分が満ちていたのである。一族衆の筆頭ともいうべき朝倉景鏡が「兵士の疲労が大きく出陣できない。」と拒否し、さらに魚住景固がこれに同調した。止むを得ず義景は寄せ集めの雑兵二万で出陣したという。

 

 8月12日は、暴風雨であった。今の信長は冴えわたっている。「この天気では大嶽山の朝倉勢は油断しているに違いない。夜襲を掛けるべきだ。」といった。信長の予想通り、弛緩していた朝倉勢は忽ち敗走した。さらに、8月13日には、丁野山城をも陥落させた。

 

 信長は義景が本気で戦う意思がないことを初めから見抜いていたのである。浅井家に対する義理で、形ばかりの出兵であろう。両城が落ちると朝倉勢は小谷城との連携が取れなくなる。小谷城はもはや救いがたい。

 

 「これで義景は越前に撤退するに違いない。必ず追撃するように。」と諸将に厳命した。ところが、山田山で監視をしていた佐久間信盛、柴田勝家らはこれを見逃してしまう。

 

 「この、馬鹿者どもが!あれほど言っただろうに!」

 

 怒り心頭の信長は自ら騎馬隊で追撃すると田部山で朝倉勢を破った。朝倉勢はさらに柳瀬に敗走したのであった。