三宅弥平次 ㊼

 

 

「信長公記」

 

 『七月十六日、真木島へ、信長御馬をよせられ、五ケ庄のやなぎ山に御陣を居えさせられ、則ち、宇治川乗り渡し、真木島攻め破られるべき旨、仰せ出される。誠に名も高き宇治川漲り下って、逆巻き流るゝ大河の表、渺々として冷じく、輙く打ち越すべき事大事と、各存知せられ候と雖も、御用捨てあるべき御気色これなきにおいて、引延すは、信長公御先陣なさるべきの旨に候。遁れがたき題目なり。就いては、両手を分かちて打ち越すべきの趣、仰せ出され候。』

 

 畿内の摂津国では池田知正細川藤孝の説得にもかかわらず、信長に造反した義昭方に着いた。そこで藤孝光秀は、その重臣であった荒木村重を調略し、池田家を乗っ取らせ、知正を放逐させた。

 また、和田惟長は家臣の高山友照・右近親子を横殺しようとして、返り討ちに合う。高山親子は高槻城を奪い取り、荒木村重の配下となった。

 

 石山城・今堅田城を落とすと、信長は3月29日上洛した。そこには藤孝とともに村重が出迎えていて、信長との謁見を果たすのであった。信長は、村重の器量を高く評価し茨木城主と認め、織田家家臣となることを許した。

 

 二条御所の義昭を包囲した信長であったが、義昭は光秀藤孝の説得も受け入れず、なおも抵抗を続ける。交渉が難航すると信長は上京区に火を掛け、喊声を上げさせた。さらに二条御所の周囲に砦を築くと御所内は恐怖に包まれた。最後まで抵抗した義昭であったが、結局は勅命により和議に応じる他なかった。

 

 元亀4年(1573年)7月3日、義昭は再度挙兵した。今回は奉公衆の真木島昭光を頼り、難攻不落と言われた槇島城に盾籠ったのである。公方勢の総兵力は3700人であった。

 信長は坂本で一泊すると、翌日、二条御所を包囲した。忽ち諸将は降伏したが、藤孝の兄・三淵藤英は最後まで抵抗した。

 7月12日、柴田勝家が説得して藤英はようやく降伏したのであった。

 

 信長は7万もの大軍を率いて柳山に着陣した。槇島城の攻囲だけに留め、できれば義昭とは戦いたくなかったのである。しかし雲霞の如き織田軍を見ても義昭はあきらめなかった。信長は止むを得ず平等院方面と五ケ庄方面から二手で槇島城に向けて渡河することにした。

 

 「まだ三か月余だ。性懲りもない話だな。」と退屈そうに弥平次が呟く。

 「これ、お相手は公方様だぞ。言葉を慎め。」と長閑斎は言う。

 

 信長は、槇島城攻めで弓、鉄砲の使用と放火を禁じた。万が一にも義昭にあたれば一大事である。おかげで弥平次は明智本陣に居残りとなった。

 『伝五は忙しかろうが、果たしてどうやって川を渡ったのやら。』と思うと弥平次は可笑しかった。

 実のところ先陣は佐久間勢蜂屋勢なので、伝五が渡河したころは全て終わっていたのだった。

 

 義昭は敗軍の将として信長の前に引きずり出された。結局、命も奪われず、将軍のまま義昭は河内に追放となった。三好衆の二の舞は避けたかったのであろう。

 信長は自分が将軍にした義昭を自ら追放する羽目になった。このことを終生恥ずかしいと思っていたようだ。その後も義昭の京都復帰を打診するなどしていたらしい。こうした態度は私たちが知っている冷淡で薄情な信長とは、随分印象が違うのである。

 信長は義昭のもとで本気で幕府を再興したかったのだろう。しかし現実主義者で乱世を生き続けてきた信長は、どうしても中世の遺物を抱える幕府とは相容れなかったのである。

 これで事実上、室町幕府は滅んだとよく言われるが、それは後世の評価であり、義昭自身はまだ征夷大将軍である。むしろ許さなかったのは義昭の方であり、これからも死ぬまで信長を苦しめ続けるつもりであった。

 

 義昭が信長の前に引き出される姿を見て、長閑斎は涙した。

 悲しかったのであろうか、悔しかったのであろうか。何にせよ、長閑斎は光秀と共に幕府再興を目指して、長年、命を懸けて戦ってきたのだ。まさかこんな日が来るとは思いもしなかったのだろう。

 長閑斎の涙を見て、さすがに弥平次も神妙な顔になった。