三宅弥平次 ㊻

 

 

 

「武田信玄終焉地考」

 

 『陣中すでに病んでいた信玄は、二月十日に野田開城後、長篠城に引き返し、軍をとどめて十六日鳳来寺温泉に移り療養しました。そして、『甲陽軍鑑』に「三月九日に、信玄公御煩、能ましまして」とあるように、一度は回復の徴候が見えたようですが、また病状が思わしくなくなって、一旦甲府に帰ることになりました。(中略)

 そして、信玄はその帰陣の途中で、雄図空しく、元亀4年(天正元年)4月12日(旧暦)、53才を一期として卒去したのでありました。』

 

 

 10月に始まった信玄の西上作戦は、12月の三方ヶ原の戦いで最高潮となる。信玄に期待する国内の反信長勢力は大きく沸き上がった。窮地に陥った信長は美濃に戻り、武田との決戦準備をするほかなかったのである。伝五の言う通り、織田家は最大の危機に陥っていた。

 

 ところが、弥平次は存外平気で、要するに美濃で信玄を破ればいいだけの話だと、割り切っていた。当然、織田家支配の畿内は荒れるかもしれないが、信玄を倒した後で取り返せばいいだけのことである。弥平次は織田方が信玄に負けるような気がしないのであった。

 

 敵国に入る信玄は遠征軍であるから、常に兵站の確保を考慮せねばならない。時間の制約を受けるのである。つまり長期戦は不利で短期決戦を目指すほかないであろう。防衛戦である織田方は、地の利を活かしつつ、武田勢を有利な戦場に導ける。山がちな甲信とは違い、平野と河川が広がる濃尾平野での決戦は織田方に一日の長があるはずだ。

 

 そもそも家康は圧倒的な兵力差があるから、信玄に国内を蹂躙されたのである。しかし、尾張・美濃の織田勢は武田勢より兵力が多い。信玄だからと言って、美濃国内の城を簡単に落とせるとは思えないのである。つまり、戦場が平坦な濃尾平野なら織田方が「七割方勝てる。」というのが、弥平次の読みである。

 

 12月3日、突然、朝倉義景は越前に不可解な撤退をした。表向きは雪によって兵站が困難になるため、という。しかし、前波吉継、富田永繁、戸田与次、毛屋猪介らが織田方に寝返っていることを考えると、既に朝倉家中が義景の思い通りにならなくなっていたのであろう。朝倉家もまた腐り始めていた。こうして義景は、信長を東西から挟み撃ちにできる絶好の機会を逃したことになる。

 

 元亀4年(1573年)2月、武田勢の動きは突然、停滞する。いつしか「信玄重病説」が巷間に流れた。武田勢の尾張・美濃侵攻はない、と判断した信長は、ここから反転攻勢に出ることになる。

 

 

武田信玄像