三宅弥平次 ㊺

 

 

 

「東浅井郡史」

 

 

 『早船の事は、以下の林與二右衛門・堅田の猪飼正勝、馬場孫三郎、居初又二郎等之を幹し、軍旅の事は明智光秀・山岡玉林斎之を統べ、その編成せる船隊、舳艫相銜みて、高島の沿岸より、海津浦、鹽津浦を経て、尾上より松原に至るまで江北の沿岸一帯は、皆之を焼き払えり。而して船を竹生島に寄せ、時々出勤して、火矢・大筒・鉄砲などにて射撃を加え、その後より上陸して、稲田菜圃を薙ぎ棄て、若しくは焼き棄てしかば江北の領土を疲弊し将士は労倦して、到る處世を秋風の心地して、恩の露もいと重く民の草葉も枯々に、野もせにすだく蟲の音も、歎の色を顕せり。』

 

 

 

 元亀3年(1572年)7月、弥平次伝五は琵琶湖にいた。猪飼昇貞が率いる堅田水軍と共に北近江の浅井方を湖上から攻撃しているのである。

 

 「いやぁ暑い、それにしても、いい天気だな。」と弥平次は夏空を仰ぎ見ながら大の字になる。船上で大いに寛いでいた。

 「お主、船は平気なのか。」といささか、緊張気味の伝五が言う。

 「ああ、こう見えても子供の頃から水練は得意だ。水馬も上手いぞ。」と弥平次。

 「俺は苦手だ。あまりうまく泳げん。なぁ弥平次、お前も美濃の山育ちであろうが。どこで泳いだ。」と伝五が言う。

 「美濃には大川がいくらもあろうが。お前、泳げんで、渡河の時はどうすんだ。」と弥平次は尋ねると、

 「川ぐらいならオレでも何とかなるさ。だが、ここは水が多すぎる。まるで海だな。」と伝五はため息をついた。

 

 信長は三万の兵力で小谷城攻略のため虎御前山に陣を敷いた。織田勢は横山城から虎御前山に多くの砦を築き、小谷城の包囲を要塞化していったのである。これに対して、朝倉義景は自ら二万人の兵力で後詰に入った。

 

 琵琶湖の制海権を握った織田勢は、北近江の郷を疲弊させるために田畑を焼き払っていく。田畑を焼かれると食料がなくなり領民は飢える。領民と領主の信頼関係は壊れていくのだ。

 弥平次ら明智勢は、高島郡から堅田衆の軍船に乗り竹生島を足場に浅井勢の沿岸を砲撃と放火で荒らし回っている。北近江の領民の泣き叫ぶ声が聞こえるようであった。

 

 「それにしても、お主は暢気だ。いよいよ、武田が動き出しそうだ。西では三好衆が松永と組み、本願寺も相変わらず、敵対姿勢だ。周囲は敵だらけだぞ。」と伝五は言う。

 「考えても仕方がない。ひとつひとつ潰すしかないだろう。見ろ、浅井はもう往年の力がない。領民も見捨て始めている。」と弥平次は言う。

 

 浅井方の磯野員昌宮部継潤が織田家に降伏したため、小谷城は孤立して苦境に陥っている。さらに明智勢が琵琶湖北岸を荒らすことで領民の心は益々、離れていくだろう。

 

 『浅井・朝倉の滅亡は近い。』と弥平次は感じているのであった。

 

 

琵琶湖竹生島の夕暮れ