三宅弥平次 ㊹

 

 

「信長公記」

 

 

 『公儀、右の御憤りを休ませられず、終に、天下御敵たる上、定めて湖境として相塞がるげく、其の時の爲に、大船を拵え、五千も三千も、一度に推し付け越さるべきの由候て、

 五月廿二日、佐和山へ御座を移され、多賀・山田・山中の材木をとらせ、佐和山の麓、松原へ、勢利川通引き下し、国中の鍛冶・番匠・杣を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、櫓百挺立たせ、櫓軸に矢蔵を上げ、丈夫に致すべき旨、仰せ聞かされ、在佐和山になされ、油断なく、夜を日に継て仕り候間、程なく、七月三日、出来訖んぬ。事も生便敷(オビタダシキ)大船、上下耳目を驚かすこと、案の如し。』

 

 

 琵琶湖の水運を握ることがいかに重要であるかは、このブログでは何度も言及してきた。信長は美濃・尾張と京都を結ぶ、この近江国を殊の外重視していたのである。

 今回の義昭の造反で石山、今堅田城が敵の手に落ちた。放置すると美濃と京都の陸路・水路を塞がれる危険があったのだ。

 今堅田城の攻略には丹羽・蜂屋の部隊と明智の水軍が活躍している。これにより今堅田城は陥落して事なきを得たが、この機会に信長は琵琶湖の水運を完全に支配することを決意したのである。

 

 まず、佐和山城坂本城の航路を確保するとともに、将兵を輸送するための大船の建造を始めた。「信長公記」には大船の建設についてのみ触れているが、当然のこととして、これを護衛する多くの軍船も必要となるため、織田家の大船団を建設したと考えた方がいい。織田家に対抗するべき浅井家も往年の力はなく、織田家は琵琶湖の制海権を握った。

 

 今回の戦役で水軍の力を知った信長は、この後、伊勢長島攻略石山本願寺との決戦に水軍を活用することになる。特に第二次木津川口の海戦に登場した鉄甲船は、ここに原点があったと言っていいだろう。

 

 船の長さは30間(54.5m)、横幅は7間(12.7m)、櫓の数は100挺、上部には矢倉が立っていたという。佐和山城で作ったとあるから丹羽長秀が責任者であったことが分かる。

 

 浅井氏滅亡後、琵琶湖の水運は坂本-安土-長浜-大溝によって織田家に支配された。北陸道や中山道、東海道の大量の物資が京都という大消費地を後背地に持つ坂本に集積したことは想像に難くない。光秀の支配する坂本は大いに潤ったことであろう。その繁栄を宣教師ルイス・フロイスは「坂本城は安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの豪壮華麗なもの」と語った。