三宅弥平次 ㊳

 

 

「比叡山延暦寺(日本のお寺シリーズ5)」

 

 

 『信長残忍暴虐、桓武帝以来歴朝尊崇の大獄巨刹を挙げて一朝にしてこれを残滅した。根本中堂以下山上の堂舎、日吉山王二十一社は容赦なく焼き払われ、一山僧侶男女数千人が殺戮せられ、仏像経巻など焼失するもの数を知らず、坂本の町家もことごとく炎上したものであります。(中略)

 それがため焼失した比叡山延暦寺は元亀3年(1572年)滋賀県蒲生郡中荘山に移して七十二坊を建て、佐々木義郷が七百石を寄付したとのことでありますが、爾来十五年間、座主欠越、その間宗徒は四方に散じて再興の日を待っていたのであります。』

 

 

 光秀は朝廷工作を進めた。まず優先すべきは帝の異母弟である覚恕の身柄の確保である。覚恕は9月7日参内すると、朝廷と何事か相談をしている。その後、重陽の節句に参加していることから、これ以降在京したものと思われる。光秀は覚恕を山から降ろすという第一関門を突破した。

 これ以後、朝廷は信長を恐れること甚だしく、何事も光秀の仲裁を頼りにするようになる。

 

 焼き討ちに対する比叡山の危機感は強く、信長に黄金300枚、堅田から200枚を送って許しを請うが、信長はこれを拒否した。

 

 さて光秀の工作は続く。延暦寺側の親信長派と交渉するとともに、織田家諸将は「全山焼討、皆殺し」の噂を広めていく。在京の者は皆、震えあがった。この噂は比叡山にも流れ、山を下りる者が続出した。織田家に従う僧侶等は坂本の麓に匿い、貴重な仏像や経典は蒲生郡の長命寺に移した。

 こうしてすべての準備が整ったのである。山に残っているのは一部の僧兵と反信長の過激な僧侶のみである。もはや遠慮は不要であろう。

 9月11日、信長は坂本三井寺に本陣を移すと、9月12日全軍7万8千人で総攻撃をかけた。

 

 比叡山焼き討ちは信長の悪行の一つに数えられるが、最近の発掘調査では、一次史料の記載はかなりの誇張が見受けられた。明確に焼失が確認できるのは根本中堂大講堂のみであるという。巷間語られていた織田勢の残虐行為は、事前準備がなされ、実は抑制的であったと思われる。

 「多聞院日記」では「僧侶の多くが坂本周辺に下っていた。」というから、こちらの方が実態に近かったのかも知れない。

 

 信長はこの処置に大層満足したと思われ、戦後処理も光秀に任せた。延暦寺日吉大社は悉く失われ、寺社の所領はすべて没収となった。これらの地は明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀の五人に配分されたのであった。

 

 信長は宇佐山城主となっていた光秀に近江国志賀郡五万石を所領として与えた。また、延暦寺の監視と琵琶湖の制海権を獲得するため、坂本城の建設を命じたのである。

 厳密にいえば光秀はまだ幕臣である。しかしこの時から事実上、光秀は織田家の家臣になったと言っていい。つまり光秀は織田家重臣の中で初めての城持ち大名となったのである。果たしてこれを他の武将はどう思ったであろうか。

 

 さて、坂本城は琵琶湖に天守が突き出た水城である。恐らくこの時既に、信長と光秀の間に琵琶湖を内海とする水城の構想ができ上っていたのだろう。

   

坂本城