三宅弥平次 ㊱

 

 

 

「信長公記」

 

 『五月十二日、河内長島表へ三口より御手遣り。信長は津島まで御参陣。中筋口働きの衆、佐久間右衛門、浅井新八、山田三左衛門、長谷川丹波、和田新介、中島豊後、川西多芸山の根へつけて、大田口へ働きの衆、柴田修理亮、市橋九郎左衛門、氏家卜全、伊賀平左衛門、稲葉伊予、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫、飯沼勘平。

 五月十六日、在々所々放火候て、罷り退き候のところに、長島一揆ども山々へ移る。右手は大河なり、左は山の下道、一騎打ち節所の道なり。弓鉄砲先々へまわし、相支へ候。柴田修理見合せ殿候のところ、一揆ども噇と差し懸け、散々戦い、柴田薄手を被り、罷り退く。二番、氏家卜全取り合い、一戦に及び、卜全、其の外、家臣数輩討死候いしなり。』

 

 

 元亀2年(1571年)2月、浅井方の武将で佐和山城主・磯野員昌が降伏した。ところが信長は、この降将に近江国高島郡を与えた。これは横山城の木下、佐和山城の丹羽、安土城の中川、長光寺城の柴田、永原城の佐久間、宇佐山城の明智と並ぶ、破格の待遇である。但し、信長の甥・津田信澄を養嗣子とするという条件であった。敵将ながら員昌が如何に信長に評価されていたか分かる。

 

 伊勢長島は尾張と伊勢の国境にある木曽川・揖斐川・長良川の河口一帯を指した。複雑に河川が入り乱れ多くの島があったという。その中の「長島」と呼ばれる島に願証寺があった。この願証寺の周辺に数十もの寺院が存在し、本願寺の門徒宗となった国人・地侍が武装して立て籠っていたのである。

 前年9月、本願寺の反信長の檄文を受けて、長島でも門徒宗が蜂起した。一揆勢は11月、小木江城信興を敗死させた。信長がこれを許すはずがなかったのである。

 

 5月12日、ようやく信長に弟・信興の仇を討つ時がやって来た。信長は五万人の兵力で伊勢長島侵攻を開始した。

 信長は軍を三隊に分けた。信長本隊は東から津島に入る。津島の前には市江島があり興善寺があった。北方の佐久間信盛が率いる部隊は立田輪中と呼ばれる島に着陣した。ここは長島のすぐ北で小木江城があった島である。そして柴田勝家が率いる部隊は西方から侵入し、香取郡の付近の村々に放火して回ったのであった。

 

 下間頼旦率いる願証寺側は地の利を生かした砦を方々に築き、鉄砲で応戦したため、織田勢は一旦退却を余儀なくされた。信長隊佐久間隊は無事に退却できたが、柴田隊は一揆勢の待ち伏せを受ける。

 

 密かに山中へ移動した一揆勢は、隘路にて弓と鉄砲で待ち伏せをした。殿軍を引き受けた勝家はここで銃撃を受けて負傷をしてしまう。勝家に代わり殿軍を務めたのは氏家卜全であった。卜全は待ち伏せをしていた一揆勢と戦ったものの敗北、ついには討死してしまう。

 

 信長はまたしても一揆勢に敗北を喫し、重臣を失うことになったのである。