三宅弥平次 ㉗

 

 

 

「言継卿記」

 

 

『●六月廿九日

 〇江州北郡軍有之、浅井討死、其外七八千計討死云々、昨日巳刻、磯野丹波守同、

 〇昨日江州北郡合戦、北郡衆、越前以下九千六百人打死云々、首四千八百有之云々、徳川衆、織田衆も多死云々、越前衆五千余討死、前波以下云々。

 ●七月三日

 〇織田弾正忠今明日之間に上洛云々、今日江州北郡佐和山之城磯野丹波守、信長へ可渡云々、

 ●七月四日

 〇申刻織田弾正忠信長上洛、四五騎にて、上下卅人にて被上、遂遂に終夜上云々、直に武家へ被参之間、四則参、於北郡之様體御雑談被申、驚耳者也、次明智十兵衛所へ被行了。』

 

 

 

 信長の情報戦を考えるにあたり、「言継卿記」の記載が実に面白い。

 6月29日には、浅井・朝倉勢が7~8千人死んだ、さらに浅井(長政)磯野員昌が討死した、と書かれている。続報として9600人が死んで首級が4800あるという、もっとも織田、徳川もたくさん死んだようだ、と書いている。さらに7月4日には信長自身が上洛し、姉川の合戦について雑談し、皆を驚かせている。

 さて、このような情報は誰がもたらせたか、といえば直接、信長から情報が入る藤孝光秀である。この話は京都中の話題になったことであろう。

 

 「大変だ、上様が当家にお泊りになるそうだ。」

 蒼ざめた顔で朝から溝尾庄兵衛が走り回っている。過去に、これほどの人物の訪問を受けたことがない。

 「確かに明智邸は広いが、最近、奉公したばかりの家臣の家にわざわざお泊りになるとは。」と弥平次は驚いた。

 「それだけご信頼いただけているのであろう。」と長閑斎は言う。

 

 明智邸は大騒ぎである。だが、弥平次の出来そうなのは邸内の整理整頓くらいである。接待の用意は庄兵衛や光忠の方が向いているであろう。

 信長の供衆は三十人程度であるというから、京都守護のため1000人程度の兵を持つ明智邸の方が安全であろう。長閑斎は本國寺の経験を活かし周囲の塀を修築し、防火対策を取っている。多少の攻撃にも耐えられるようにできているのだ。信長もそれを知って宿にしたのであろう。

 

 高位者の接待について光秀は専門家である。長閑斎、庄兵衛、光忠らに的確な指示を出し、準備は滞りなく終わった。弥平次には完全武装の部隊を付けて邸内の防備を担当させた。

 「将軍御親征」について、信長の書状では不問であったが、面前では叱責を受けるかもしれない。光秀はある程度覚悟をしていた。

 

 信長は明智邸の接待に満足したようである。事実この後も時折、明智邸に宿泊している。面と向かっての叱責もなく、むしろ今回の公方の対応がどのようなものであったか、今後の織田家と幕府の関係について、突っ込んだ議論が行われた。

 光秀は幕臣であり、奉公衆であるのだから、本来は公方の味方をすべきである。しかし、光秀はあえて天下国家の立場から、これからの幕府を論じた。光秀の見たところ、この公方はどうにも危ういのである。信長も率直に公方に対する疑念を吐露した。

 二人は、今後の幕府について夜遅くまで、忌憚なく話し合ったのであった。