三宅弥平次 ㉒

 

 

 

信長公記」

 

 

 『四月晦日、朽木越をさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是より、明智十兵衛、丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣わされ、武藤上野人質取り候て参るべきの旨、御諚候。則ち、武藤上野守母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ、』

 

 

 信長の朽木峠越えには朽木元綱の協力があったと言われている。最も一説には元綱は始め、信長を殺そうとしていたが、松永久秀に説得され協力することにした、ともいわれている。

 

 朽木氏は第13代将軍・足利義輝を匿ったことで知られる。この後、元綱は信長に仕えるものの重用されることはなく、秀吉の時代に高島郡で9千石余の知行を受けている。関ケ原の戦いでは、西軍にいながら東軍に内応し、何とか本領を安堵している。弱小武将ながら戦国・織豊期を生き抜いて、84歳で故郷の朽木谷で亡くなっているのである。

 

 疲れ果てた明智隊は帰京すると泥人形のように眠りこけた。そして翌朝は豪快に飲み食いして生気を養った。ようやく人心地ついたと思ったその時、弥平次のもとに長閑斎がやって来た。

 

 「本当ですか。」と弥平次は驚いた。

 「ああ、すぐに出陣の準備だ。」と何事もなく長閑斎が言う。

 命辛々、敦賀から戻って2日しか経っていないのだから、弥平次が驚くのも無理はない。まだ軍装も解いていないものもいる。

 「それは、却って好都合だ。怪我をしているもの、養生が必要なもの以外は皆、連れていく。今回は丹羽様と同行するそうだ。」と長閑斎。

 

 信長は、人使いが荒い。明智・丹羽隊は朽木谷で元綱にお礼を言い、多くの褒美を取らせた。その一方で長秀は若狭に使いを出し、武藤上野介友益と交渉を始める。朝倉軍は既に越前に戻っている。「単独で織田軍と戦って勝機があるか、よく考えろ。」と言っているのである。

 友益は戦わずして織田軍に降伏した。武装を解除された上で母親を人質に取られている。光秀は一兵も損なうことなく、無事帰京できた。どうやら、この二人は馬が合うようだ。

 さらに友益は姉川の合戦以降、信長によって追放されている。追放後も、武田元明のもとで許されて家臣として生き延びたようである。

 

 

若狭国小浜の古い町並み