三宅弥平次 ㉑

 

 

「信長公記」

 

 

 『翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候。則ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差遣わされ、塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰え、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候、是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には木下藤吉郎残しをかせられ、』

 

 

 永禄13年(1570年)4月20日、信長幕府軍、織田軍、徳川軍池田勝正、松永久秀ら畿内諸将を集め、幕府連合軍3万人を率いて若狭国を目指して京都を出陣した。

まず幕府軍は敦賀の天筒山城を攻撃する。天筒山城は、金ヶ崎城とは尾根続きで寺田采女正が守備していた。この戦いは激戦となり、幕府軍にも多くの被害が出たが、敵兵1300人余りを討取り、力攻めで落とした。

 翌日、信長は朝倉景恒が籠っている金ヶ崎城に攻撃を始めた。しかし前日の敗北を見た景恒は戦意を失っていて、信長の降伏勧告に応じ城を明け渡したのであった。

 

 「義景公は何故、敦賀に援軍を出さないのでしょう。ここは越前若狭の要衝なれば、木の芽峠辺りまで数万の後詰が来ているものと思っていました。」と弥平次が首をかしげる。

 「さて、何とも不思議なことだ。峠に何か罠でもあるのやら。それにしては簡単に降伏したのも解せぬ。」と長閑斎が言う。

 確かに、もしも織田軍が謀叛に気づかず越前に進めば、木ノ芽峠において前後で挟み撃ちになったのだから、罠だったともいえる。しかし一説には救援が遅れたのは景恒景鏡の諍いが原因ではないかとも言われている。

 

 「明日には木ノ芽峠を目指すそうだ。」という長閑斎に、

 「若狭に行くなら、西に向かうべきではないのですか。」と弥平次。

 「最初から若狭など眼中にないのだろう。上様は、元明公奪還を口実に義景公に鉄槌を下ろす気なのだよ。」と長閑斎が言う。

 「若狭一国に3万人は確かに多すぎます。何れは越前勢と一戦あるものとは思っていました。しかし、越前国乱入となれば大ごとです。公方様には大方そこまで知らせてないのでしょうね。」と弥平次は言う。

 この戦いが終わればまた光秀に災難が降りかかりそうである。

 

 光秀は幕府軍の一員として500人の兵を連れて従軍している。光秀のもとには幕府の直属諸将が与力として付けられ1000人ほどの部隊となっている。従軍中の光秀は、京都にいる細川藤孝らに書状を出している。そこには「越州と北郡の動向を警戒している」と書かれていたという。光秀は最初から浅井長政の動向を警戒していたことが分かる。

 

 これに対して「信長公記」では、信長が「浅井謀叛」の一報を「虚説」として信じなかったと記述している。周辺の諸将は危険性に気づいていたが、信長が長政を信用しすぎていたという事なのであろうか。

 しかし、警戒をしていた諸将から次々と「謀叛」の知らせが入ると信長は直ちに退却した。退却には松永久秀らが活躍し、信長は朽木峠を通り、無事京都に戻ることができた。

 

 「信長公記」には金ヶ崎城には木下秀吉が残ったとあるが、近年の研究では、殿軍は3000人を率いていた池田勝正隊だったようである。信長は援軍として木下隊明智隊及び鉄砲隊500人を池田隊に預けたようだ。これは恐らく、池田隊には鉄砲が不足していたからであろう。貸与した500人の鉄砲隊を有効に利用できるのは木下・明智両隊である、と信長は判断したのだろう。一説には家康も殿軍に入ったという説もあるが、一次資料では確認できていない。

 

 金ヶ崎の退き口は後世、秀吉の出世話として色々脚色されている。しかし、実際の殿軍は見事な退却戦を演じたようである。退却には、先ず、鉄砲隊で相手に斉射を浴びせ、玉込めの間は弓隊が応戦、敵が近づくと長槍隊が突撃する。その間に鉄砲、弓隊は素早く退却し、後方に新たな陣を作る。突撃した長槍隊が崩れると、また鉄砲隊が斉射して相手を怯ませる、という事を繰り返して段々と退却していくのだという。鉄砲隊と弓隊は貴重であるが、長槍隊の足軽は消耗品であることがよく分かる。

 

 こうして、長閑斎と弥平次は敵兵の追撃を退けながら、疲労困憊で何とか京都までたどり着いたのであった。