三宅弥平次 ⑳

 

 

 

「足利義昭織田信長誓約書」

 

『一諸国へ以 御内書被仰出、子細有之者、信長ニ被 仰聞、書状を可添申事

 一御下知之儀、皆以有御棄破、其上被成御思案可被相定事

 一奉対 公儀忠節之輩ニ、雖被加、御恩賞御褒美度 候、領中等於無之ハ信長分領之内を以ても 

  上意次第ニ可申付事

 一天下之儀、何様ニも信長ニ被任置候上者、不寄誰々、不及得上意、分別次第可為成敗之事

 一天下御静謐之条、禁中之儀毎事不可有御油断之事已上

  永禄十参 判(天下布武)正月廿三日

  日乗上人

  明智十兵衛尉殿へ 』

 

 

 光秀長閑斎、庄兵衛が渋い顔で話し合っている。何があったのやら、気にかかる弥平次ではあるが、声をかけるのも憚れた。

 

 後で、長閑斎に尋ねると、やれやれ、といった顔で話してくれた。

 「本國寺の件で公方様は大層お喜びで、殿を奉公衆にお加えになったそうだ。」

 「ほう、それは目出度い事ではないですか。」と弥平次が言うと、

 「そして、褒美として、下久世荘を殿にお与えになったのだ。

  そこで殿が安堵状を持って下久世荘に出向くと、そこは東寺の所有する荘園で、

  明智が横領したと大騒ぎになったのだ。」と長閑斎は言う。

 「人様の所領であったと…。」弥平次はあきれて言う。

 「公方様の手前もあり、対応に困り果てていると東寺側が幕府や朝廷にまで訴え、

  大騒動になったそうだ。」と長閑斎が言う。

 

 この話は実は少し難しい。荘園は領主と地頭の二重支配となっている。地方では既にこの荘園制が形骸化しているのであるが、畿内周辺はまだ寺社勢力が強く、土地の所有を巡るもめ事が多かった。しかし幕府の新参者である光秀にとっては、このようなもめ事は余計な神経をすり減らすのである。悪い噂が立つとお役目にも支障をきたす。

 

 永禄13年(1570年)信長は義昭に対して「殿中御掟」を通告する。宛先は幕府側の代表として光秀、織田家側の代表として朝山日乗であった。光秀は何とか義昭を説得して、漸く承諾の黒印を押させた。これ以降、光秀は義昭信長の間で苦しみ続けることになる。

 

 改元して元亀元年(1570年)義昭は朝倉義景に幽閉された甥の武田元明を救援するため、幕府軍の若狭国派遣を決意した。

 

 若狭国主の武田元明はまだ幼少であったため、内紛が発生し、朝倉派の武藤氏により越前に連行された。義景は武藤氏を通じて若狭国の支配を目指していたのである。反朝倉派の家臣は幕府に救援を求めた。義昭は幕府に好意的であった若狭衆のために、この甥をどうしても助けたかったのだ。そして、これを信長は好機と捉えたのである。

 

 信長は諸大名に「幕府軍」に参加するように檄を飛ばした。この機会に織田体制下の幕府の権威を高めようと考えたのである。

 

 

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)