三宅弥平次 ⑲
「阿弥陀寺文書」
『阿弥陀寺敷地指図幷方々寄進分、以御下知付由、尤候、
弥御建立肝用、相応之儀、不可有疎意候、恐々謹言、
永禄十二 六月廿一日
明智十兵衛尉 光秀(花押)
清玉上人御同宿中 』
永禄12年2月から光秀は村井貞勝や中川重政と共に京都周辺の政務に関わって、文書の発給等に携わっている。どうやら光秀は幕府側の役人として出仕していたようだ。さらに、4月頃からは木下秀吉、丹羽長秀、中川重政とともに京都奉行となっている。早くも織田家の重臣たちと肩を並べるようになったのである。
光秀が京都の政務に関わるようになると、溝尾庄兵衛茂朝と同行することが多くなった。庄兵衛は弥平次と同年代であるが、性格は相当違う。もとより武士なので大胆なところもあるが、意外に細かいのである。有職故実や帳簿の検査、法令の細則などを得意としていて、弥平次は「明智家の帳簿係」と言っている。
長閑斎と弥平次は新たな軍制の整備で忙しい。足軽大将として100人程度を指揮するのと、侍大将格で500人を指揮するのでは軍制が根本的に違うのである。新規募集にしても誰でも良いという訳にもいかない。できれば身元のしっかりしている美濃衆か、幕府関係者が良い。
兵500ともなれば、最小単位の『備』であるとも考えられる。「備」とは独立して作戦行動を行える部隊のことである。
基本の編成としては、侍大将(光秀)と次将(長閑斎)に旗本衆100人、足軽大将に弥平次、庄兵衛、藤田伝五、明智次右衛門光忠の4人にそれぞれ80人程度の足軽を配する。
「備となれば、小荷駄隊も必要だ。小荷駄隊長は庄兵衛が良いであろう。」と長閑斎は言う。独立部隊である備は、糧秣の確保も必要である。
実は小荷駄隊長は要職である。作戦に係る荷駄の数や人足の手配、小荷駄の護衛と仕事は多岐に及ぶ。また、万が一、敗戦となり、主将が死亡した場合、撤退戦は小荷駄隊長が担うものなのである。
兵科による分業は、もう少し後の時代になるため、それぞれの部隊は、騎馬武者に長槍隊、弓隊等がいるのが普通である。
しかし、光秀は「鉄砲隊」を充実させたい、との強い希望がある。高価な鉄砲隊を旗本と弥平次の部隊に集中させ、斉射の威力を向上させたいのである。
「これまで鉄砲は高価で連射が利かないことから狙撃用に用いられることが多かった。殿はそれを根本的に変え、斉射によって戦場を制したいと考えている。弓隊と長槍隊は鉄砲の護衛に充てる。」と長閑斎は言う。
「連射が利かない弱点を弓隊と長槍隊で補うという事ですか。」と弥平次が感心する。一列に並んだ鉄砲隊が斉射をすると直ぐに後方に下がり、入れ替わりに弓隊と長槍隊が前面に出て玉込めの鉄砲隊を守るのだ。そして玉込めが終わると再び鉄砲隊が斉射を行う。
京都に来てから明智隊は実に忙しい。京都奉行のお役目を果たすためにも、まず兵員の補充と訓練、糧秣の搬入と備蓄は早急に成し遂げなくてはならない。
上様から、いつ動員が掛かるのか分からないのである。以前、弥平次に「分不相応」と言われた京都の明智邸は忽ち物資と人で溢れだした。
「殿は瞬く間に、随分ご出世されたのだな。」と弥平次は痛感した。