三宅弥平次 ⑯

 

 

「信長公記」

 

 

 『片邊の小城どもをば、物の数ともし給わずして、同じく十二日、佐々木左京の大夫入道、抜闕斎承禎が居城観音寺、幷に箕作山の城へ押し寄せんとて、手分けを定めて、其朝先ず信長卿、箕作山の様體見渡さるべしとて、森三左衛門の尉、坂井右近の将監、其外小姓馬廻五百騎計にて、打出でらるる所に、敵よりも足軽少々出しけるに、森坂井手勢引分け、馬を駈入れ、東西南北に、駈破り追散らし、城中へ追込み、敵八十餘討捕り、鬨を咄と上げたりけり。』

 

 

 永禄11年(1568年)義景は、嫡子を失うという不幸に見舞われ、激しく落胆した。当初、義昭の岐阜への動座に強く反対していた義景であったが、結局同意せざるを得なかった。

 私たちは織田家と朝倉家は、つい仇敵だと思ってしまうが、当時はまだ友好的だったのである。

 

 7月13日、義昭ら一行は一乗谷を出立した。

 義景は、浅井方との国境まで、朝倉中務大輔2000人・前波藤右衛門2000人に護衛させた。さらに、浅井長政は小谷城で歓待し、精鋭2000人の兵力で織田家との国境である仏が原まで護衛した。

 そして仏が原で義昭を出迎えたのは500人の兵を従え正装した明智光秀であった。すでに街道筋は織田勢の兵力で固められていたが、長秀の配慮により、光秀は信長が待つ立政寺までの義昭護衛という栄誉を受けたのである。

 

 護衛の任を終え、光秀は館に戻ると直ちに主だった家臣を集めた。

「上様より、9月の出陣を命じられた。京に上るぞ。すぐに準備に入る。何としても200人は集めねばなるまい。」

 一同は驚くしかない。9月と言えば、あと、2か月しかないではないか。

「湖北の浅井様はご兄弟ゆえ大丈夫でしょうが、湖南の六角家は、どうなさいます。上洛にご同意いただけるのでしょうや。」と長閑斎が尋ねる。

「押し通す、そうだ。」と光秀は言った。

 

 9月7日、信長は上洛戦を開始した。六角義賢は、この頃、家中に内紛を起こしてしまい、北方の浅井氏に強い圧迫を受けていた。織田家と同盟した浅井氏に対抗して、三好方についた六角氏であったが、信長には全く歯が立たず、観音寺城を放棄して甲賀に逃げ延びた。

 

 信長が京都に入ると三好三人衆のうち岩成友親が降伏、もう一人の三好長逸が阿波に逃げ出した。

 池田勝正は、池田城に籠城し信長に抵抗したが、結局降伏した。義昭が芥川山城に入り、将軍旗を掲げた頃、第14代征夷大将軍・義栄が、ついに入京することなく病気で亡くなった。享年31歳である。10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、第15代征夷大将軍となった。

 

 10月26日、信長は、京都に僅かな手勢を残すと美濃に帰還する。京都に残った義昭は、六条本國寺を仮御所としたのであった。

 

 光秀は京都に分不相応とも思われる邸宅を与えられた。

「とても足軽大将の館ではありませんな。」と弥平次が言うと

「これ、無礼なことを言うものではない。」と長閑斎が窘めた。

「上様は殿に相当期待されているという事でしょう。」と弥平次は笑顔を浮かべた。

 

 12月24日、松永久秀がお礼のため岐阜に下ると、京都周辺に兵力の空白が生じた。この機会を三好一党は見逃さなかったのである。

 

 

観音寺城跡