三宅弥平次 ⑮
「信長公記」
『急ぎ信長を頼み思召し然るべきにて候と、老臣一同に同じければ、公儀も彌尤なりとて、細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信を以て、当家一度京都安座の儀、信長武略の威を以て、早速其功をなさしめ給へと、御教書を添えられ仰せられければ、信長武勇を励ます者の面目と申し、人臣の本意といへ、累代の名誉とこそ存知候へ』
永禄11年(1568年)2月8日、足利義栄が第14代征夷大将軍に任じられると、一乗谷にいる義昭の焦燥感はますます強まっていった。
義昭は光秀の報告を受け、岐阜に行って信長に会いたいと思うようになっていた。勢い光秀は、義昭の連絡係として、岐阜に出向くことが多くなる。当然、これは朝倉家中の光秀の立場をますます危うくさせたのであった。
やがて鞍谷刑部という男が義景に何事か讒言したらしく、義景もまた、光秀の行動を疑うようになったのである。
こうなっては、もはや朝倉家にいることはできない。義昭から岐阜入りの備えを命じられた光秀は、一足先に岐阜に出向することにした。
岐阜に向かう途中、何やら浮かぬ顔の光秀に弥平次が問いかける。
「いかがなさいました。」
「うむ、10年近くも朝倉家に仕え、引き止める者も、見送る者もいない。これは、如何にしたものか。」と光秀は言う。
振り返ると近江では500人いた明智隊も、今は80人ほどしかいない。
「この者は皆、殿と生死を誓ったものばかりです。私はこれで良かったと思います。むしろこれからが楽しみです。」と弥平次は言った。
長秀は「公方様から明智殿を召し抱えるよう内命がありまして、上様からは是非とも高禄でお迎えするように指示がありました。調べましたところ、闕所に4200貫の地がありますが、こちらでいかがでしょう。」と言う。
光秀は「恐れ多い事です。見ての通り、古くから付き従う者は100名に満たぬ有様です。それがし越前で最初に500貫でお仕えしましたので、貴家にお仕えできるなら、まずは500貫でお願いしたいと存じます。」と言った。
「4200貫でいいではないですか。殿も朝倉に長くいて気弱になりましたか。」と弥平次が言うと「俸禄には奉公がつきものだ。4200貫といえば1万石ほどになる。軍役は500名だ。高禄を受けて兵が揃えられなければ笑いものになるだけであろう。」と長閑斎は言う。
「そもそも、さしたる功績もないものが、いきなり高禄を受ければ、織田家中で妬みを受けるのは必至だ。殿は実力で高い俸禄を勝ち取るだけの自信があるのだよ。」と言ってのけた。
光秀は500貫で織田家に召し抱えられた。そして当面の軍資金として莫大な報奨金を与えられたのである。これで早く軍役を整えろという意味であろう。
一乗谷遺跡