三宅弥平次 ⑭

 

 

 この頃、光秀義昭がいる安養寺からほど近い東大味という所に居住していた。出仕するにも、守護するにも程よい距離である。

 

 そんな光秀のもとに岐阜から奇妙な書状が届いた。

「どうなされました。」

 怪訝な顔をしている主人に筆頭寄騎の長閑斎(光廉)が尋ねる。

 光秀は訝しげに言う。

信長公から是非とも織田家に来いと、高禄で召し抱えると言っている。」

「ほう、それは良いですな。」と庭先にいた弥平次が口を挟む。

 光秀と長閑斎は互いに顔を見合わせた。二人は若い頃の信長の悪い評判を良く覚えているのだ。

「良いではないですか。どうせ、このまま朝倉家にいても、詮無いことでしょう。」

 弥平次は、憮然として言う。

 

 しばらく越前を離れている内に光秀の居場所は、すっかりなくなっていた。元々、君命により義昭公をお守りしていたはずなのに、今では家中で露骨に邪魔者扱いをされているのである。

 

 越前の太守・朝倉義景は義昭の救出に熱心で、それを保護し、動座させた光秀を高く評価していた。義昭の将軍就任のためなら、今にも京都に派兵し、三好氏と戦いかねない勢いである。それに対して、一族・宿老は厄介ごとを引き込んだ光秀に嫌悪感を露わにしていた。誰も戦など望んでいなかったのである。

 

 家臣団を代表するように、一族衆筆頭・朝倉景鏡は説得する。

「よくお考え下さい。今、我らが兵を京に遣わせるには西近江を通らねばなりません。我らが京都在陣中に六角浅井が街道をふさげば、袋の鼠となりましょう。つまり我らが京都に進むためには、まず何としても若狭を支配しなくてはなりません。幸い丹波は諸豪族の寄り合い地ですから、いざとなれば丹波から若狭の高浜へ逃れることができます。」

 

 義景も兵站の重要性は良く分かる。今は敦賀を拠点として若狭に兵を進めるのが、この場合の定石であろう。こうして義景の上洛気分は一気にしぼんだのであった。

 

「なるほど、さすれば何としても、明智殿には岐阜に行って、一度、信長公にお会いいただかなければなりませんな。」と真顔で藤孝は言う。

「うむ、驚かないか。やはり、この方の入り知恵であったか。」と光秀は思った。恐らくそんなことだろうとは思っていたのだ。光秀は疑問に思っていた書状の背景を概ね理解した。

 

 永禄10年(1567年)末、光秀は岐阜で信長に会った。信長は上機嫌で光秀と言葉を交わすと「後は五郎左に聞け」といって、慌ただしく立ち去った。何か不手際があったのか、と光秀は不安に思ったのだが、五郎左(丹羽長秀)という男に言わせると「上々の首尾」であったという。

 長秀の年齢は光秀より幾分若く、何より穏やかで、その思慮深そうな所作に光秀は感じ入った。そして、いかにして義昭公を岐阜にお迎えするか、二人は膝を詰めて話し合った。荒武者が多いという織田家にこのような重臣もいるのかと光秀は感心した。長秀もまた、光秀の話に満足そうな笑みを浮かべていた。

 

 光秀が退室すると、長秀は直ちに信長に詳細を報告する。しかし信長は義昭岐阜入りの段取りには、さして興味がなさそうである。

 

「五郎左、どう見た?」急くように尋ねる。

「誠に、逸材にございます。」

 信長と長秀は、互いに顔を見合わせると深くうなずいた。