遠山利景 ⑮
「群書類従・北条記」
『氏直、甲斐なき命なからえ家老舊功の侍少々召連て、紀伊国高野山に参り、同冬、山より下り、天野と云所に有りしを、関白殿、大坂へ呼給い、対面有りて伯耆国を可賜との儀也しか。運命や此時に縮りけん。文禄元年十一月四日、三十一歳にて早世し給う。法名は松厳院大圓徹公居士尊儀と号す。』
天正14年(1586年)家康は居城を駿府城に移すと家臣を城下町に住まわせた。これに従い利景ら明智遠山一族も駿府に移り住んだ。
天正17年(1589年)11月秀吉は北条氏との手切れ書を発し、全国に陣触れを出した。家康もまた秀吉傘下として2月1日先鋒軍3万人で出陣することになった。利景は家康麾下で参戦、長久保城に着陣した。利景もこれまで様々な戦場に立ったが、これほど大規模な戦いを見たことがなかった。里も山も海も川も将兵であふれている。特に山育ちの利景にとって千艘を超える水軍には度肝を抜かれた。まったく長生きはするものである。
徳川家の軍議はいつも騒々しい。中央に家康が座り瞑目する中、重臣、側近らが次々と発言し、いつしか喧々諤々、物議騒然で収拾がつかなくなる。すると、家康が「えぇい、静まれ」と一括すると、全員が「は、はあ」となる。新参ものだった利景には何か田舎芝居を見ている様な気がした。その後、幾度か参加して分かったことであるが、実は重臣によって既に落としどころは決まっていて、後は阿吽の呼吸で掛け合いをやっていたようだ。やはり一種の芝居であった訳だが、重苦しかった織田家の評定とは雲泥の差である。
小田原城攻囲戦には北方隊として前田・上杉・真田・依田等3万5000人、水軍が長曾我部、加藤、九鬼等1万人、関東勢が佐竹、宇都宮、結城等1万8000人。そして関白秀吉が率いる本隊17万人が東海方面から攻め上った。合計21万人である。対する北条勢は8万2000人であった。利景は家康の旗本として近習したが、特にこれといった働きもないまま小田原征伐は終わった。
天正18年(1590年)7月5日、氏直は滝川雄利の陣所に出向いた。氏直は自らの切腹を以て城兵の赦免を申し出た。氏直の処遇は一旦預かりとなり、秀吉は開戦の経緯を検分のうえ、氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁に切腹を命じた。氏規も追い腹を切ろうとするも押し留められる。
秀吉は家康の娘婿でもある氏直に好感を持ち、一旦、高野山に蟄居を命じたのち、翌年には大坂に招き赦免の上、伯耆国一国の知行を許した。しかし残念ながら氏直は11月には病死してしまうのである。氏規は高野山に蟄居の後、天正19年(1591年)に2000石、文禄3年(1594年)には、7000石の知行が与えられた。氏規の死後、氏盛が河内狭山藩1万1000石で継承し、北条家は大名家に復帰した。
家康は関東250万石へ転封となった。利景は、ここで思いがけなく上総国で知行を得た。石高や知行地は分かっていないが、江戸に2700坪の屋敷を賜っている。これは江戸時代においては1万石から2万石の家格であり、利景に対する家康の評価が高かったことが分かる。
北条氏直像(早雲寺所蔵)