遠山利景 ⑬

 

 

「三河物語」

 

 『大久保七郎右衛門は、平岩主計が備に乗り入って云いけるは、貴殿の備を河を越えて我らが備の後に押付給え、敵の人数のまつまらざる内に我等が切って掛けるべし。然る時ンば一人もやるまじきと申せば、中々主計返事もせず、七郎右衛門重ねて云いけるは、河を越すこと成間敷と思われば、せめて河のはた迄備おろさせ給へ、我等かかり可申と申けれ共、其儀もならざれば、七郎右衛門腹を立て、日比其覚悟成人なれば力なき浅間敷し事とて、又鳥居彦右衛門備へ行て申は、平岩主計方に其方備を河のはた迄おろし給え、然らば、敵の人数散々なる内に切て掛けらんと云いけれど、ふるいまわりて物をも云わず。(中略)是は猶もふるえて、返事も無れば、“あったら知行かな”と云い捨てて帰る。』

 

 

 天正13年(1585年)家康真田昌幸沼田城を北条氏に引き渡すように命ずるが、昌幸はこれを拒んだ。決戦を覚悟した昌幸は、かつて裏切った上杉氏に次男・真田信繫を人質に救援を頼みにいく。上杉景勝はその厚かましさに呆れたが、小身の真田が徳川に挑むという心意気に免じて支援を承諾した。この頃、景勝は既に秀吉に従っていたため、公然と兵を挙げることができず、領地防備として国境に5000人を配置した。さらに人質とした信繁に雑兵を付け「死ぬなら親子共々」と上田城に戻した。上杉家の人の好さは戦国大名とは思われないもので、謙信以来の義の家系と称される所以であろう。

 

 家康は真田討伐軍として鳥居元忠、大久保忠世(信州惣奉行)平岩親吉(甲州郡代)以下7000人を派遣した。小諸城の依田康国は、これが初陣で、遠山一行もこれに従ったのではないかと思われる。上田国分寺に布陣した徳川勢は小勢(1200人)の真田勢を侮り、数を頼んで押し寄せて大手門を破ると、二の丸まで易々と攻め込んだ。

 ここから真田勢の反撃が始まり、櫓に囲まれた二の丸で集中砲火を浴びた徳川勢が撃退された。突撃する部隊と敗走する部隊で大手門前は大混乱となり、城方からの追撃を受け総崩れとなった。さらに伏兵が城下に火をかけたため、徳川勢は雪崩を打っての総退却となった。国分寺を目指して徳川勢が敗走するところを今度は戸石城から打って出た真田信之に横槍を入れられ、多くの将兵が神川に追い落とされた。

 この戦いで徳川勢は1300人も死んだといわれる。この後、徳川勢は丸子砦を囲うも落とせず、更に4000人の援軍を得たが、結局一時撤退となった。なおも忠世は小諸城で真田勢と小競り合いをしたが、石川数正の豊臣家出奔が起こり、徳川勢は完全に撤退した。

 

 天正16年(1588年)冬、家康の使いをしていた一行は信濃と甲斐の国境の平沢峠で大雪に遭遇して命を落とした。これによりついに明智遠山家嫡流は途絶えた。

 利景は甚だ落胆した。家臣らと相談の上、以降は利景流を嫡流とし、後継を方景とした。一行が亡くなった時、利景は48歳になっていた。人間50年、残り少ない人生なのに思い通りにならないことばかりである。利景は挫けそうな心を、逞しく成長した方景・経景を見て奮い立たせた。

 

 

 

 

 

 

真田昌幸像(信濃真田家13代目当主幸正氏所蔵)