遠山利景 ⑫

 

 

 

「岡崎市史」

 

 

 『さて、家康は先に一旦約したることにもあり、一は信雄卿のため抂げて十二月六日に於義丸を上洛せしむ事を諾した。是に於いて十二月十二日於義丸浜松を発して上洛の途に就く。石川伯耆守数正またその二男勝千代を質とし、数正これを送って上洛した。宇野主水記に「三州家康之実子十二月廿日比京着、石川伯耆守供、近日大坂コサルルト云々」とある。本多重次の嫡子本多仙千代亦於義丸に従って上洛せりと云う。於義丸と重次との関係甚だ深し。仍て我が子を於義丸の小姓として従はしめたのであろう。』

 

 

 徳川家康の次男・於義丸は父親から愛されない子であった。理由は諸説あり、正室・築山が母・長勝院を側室として承認せず、浜松城から退去させられたからであるとも、双子で生まれたためとも言われている。本多重次は城内から追放された長勝院を保護し出産させると、生まれた於義丸を中村源左衛門のもとで育てさせた。

 於義丸3歳の折、これでは余りに不憫であるという嫡男・信康の取り成しで家康と対面させたが、結局、築山が亡くなるまでついに於義丸は認知すらされなかった。

 

 天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの後、家康は秀吉と和睦した。和睦の条件として秀吉側に養子(人質)を出すこととなり、選ばれたのが於義丸であった。父の愛を知らずに育った於義丸は、またもや徳川家から出されたのである。重臣・石川数正が大坂へ於義丸を連れて行った。数正は我が子・勝千代を、また重次も仙千代を小姓につけた。薄幸の於義丸と運命を共にしたのである。

 秀吉は於義丸の到着を大いに喜び、元服させると自らの「秀」と家康の「康」をあたえ、「羽柴三河守秀康」と名乗らせた。秀吉のもとで育った秀康は、負けん気が強く、何をやらせても優秀で、初陣の九州征伐でも功績を挙げた。しかし優秀であるが故か、秀吉に実子・鶴松ができると、すぐに結城家に養子に出された。これこそが結城秀康である。

 

 天正12年(1584年)に秀吉と家康の和睦が成立すると東美濃は再び羽柴方の領地となった。明知城は森長可の弟・森忠政の所領となり、またしても利景は明知城を追われたのである。気がつけば、すでに利景も45歳となっていた。足助城に向かう利景の足取りはさぞ重かったろう。幾度も明知城を振りかえりつつ「父祖の築いた明知の地には、もはや戻れまい」と思ったに違いない。家康は下条康長に恵那郡上村を利景に譲るよう書状を送った。だが、上村が利景の領地になったという証拠が見当たらないので、恐らく不調に終わったのだろう。家康も利景の処遇には気に掛けていたようである。

 

 

結城秀康像(運正寺蔵)