遠山利景 ⑪

 

 

「愛知県史要・郷土研究」

 

 

 『十三日夜秀吉の先鋒池田信輝は大垣城を発し犬山城を襲うて之を陥れた。森長可も亦秀吉に応じ、兵を丹羽村羽黒に出し、家康の将酒井忠次・松平家忠・同家信・奥平信昌等と戦いて互に勝敗あり。家康は小牧山に壘を築いて之に據った。二十七日秀吉は十餘萬の兵を率いて、犬山に至り次いで楽田に陣し二重堀・岩崎山・小松寺・青塚山・内窪山等の諸壘を構えて小牧に封した。秀吉の武将池田信輝・森長可・堀秀政・羽柴秀次等切に秀吉に乞いて家康の本拠三河を襲わんとし、四月六日二萬餘騎を以て楽田を発し八日長久手に達した。家康は之を探知し、酒井忠次・本多忠勝等を小牧山に留め水野忠重・榊原康政・大須賀康高等に四千餘騎を授けて先発せしめ、自らは其夜信雄と共に井伊直政を先鋒として小牧を出てて小幡城に入った。かくて九日両軍大いに長久手に戦ったが西軍利あらず、信輝・長可戦死し、秀次は楽田に向って敗走した。』

 

 

 明知城から逃れた利景は、またしても足助城の義父・鈴木重直に頼ることになる。そこで一族の今後について話し合った。利景ら一族は、ここに留まり、若い一行は徳川家の直臣として家康に仕え将来に備えることにした。家康に出仕した一行は大久保忠世信州惣奉行の配下となり、依田康国指揮下の小諸城に入った。この城は表裏比興の者・真田昌幸に対する徳川の備えである。

 

 そんな徳川家に危機が迫りつつあった。秀吉により安土城を退去させられた織田信雄は家康と同盟を結んで秀吉に対抗する。信雄を支援するため家康が清洲城に入ると、池田恒興が羽柴軍に寝返り犬山城を陥れた。すぐさま家康は小牧城に入り、これを牽制すると、今度は金山城から森長可が出撃し、犬山に近い羽黒に布陣した。家康はすかさず酒井忠次ら5000人で羽黒に夜襲を掛けたため、長可は死者300人を出して敗走した。その後、秀吉は本軍3万人の軍勢で犬山城に入城した。

 犬山と小牧で両軍の睨み合いが続くと恒興と長可は「羽黒の恥を雪ぎたい」と秀吉に懇願した。長可らは「別動隊2万人を指揮して、三河に侵入すれば家康は進退窮まる」と主張した。秀吉は之を許可し、恒興・長可・羽柴秀次らは4月6日夜半に密かに三河に向けて出撃した。

 

 物見から秀次の動きを知った家康は4月8日4500人の支隊を放つと、自らも夜半に主力9300人を率いて小牧山を出立した。4月9日、恒興勢が岩崎城を攻撃している時、先行した徳川支隊が後詰の秀次勢を奇襲し壊滅させる。秀次勢の敗戦を知り、引き返した堀秀政勢は、徳川支隊を撃退したが、家康本軍が迫っていることを知り退却した。

 両軍は長久手に於いて邂逅すると徳川勢は、右翼に家康、左翼に井伊直政信雄で布陣、羽柴勢は右翼に池田元助輝元、左翼に長可、後方に恒興という布陣で一進一退の攻防が続いた。しかし水野勝成配下の鉄砲足軽・杉山孫六によって前線で戦っていた森長可が狙撃された。長可は眉間を撃ち抜かれ即死した。鬼武蔵はまだ27歳だったという。森勢が崩れると恒興勢が態勢を立て直そうと部隊を前線に押し出したが、これも恒興が長槍に突かれて討死してしまう。さらには元助も討たれ、ここに至り森・池田勢は壊滅した。

 秀吉は別動隊の敗戦を知ると直ちに本軍3万人を率いて南下したが、僅か500人の本多忠勝に行く手を遮られる。秀吉勢の諸将はこの機会に討取るべしと騒ぎ立てたが、秀吉は、忠勝の忠義に免じて敢えて戦わなかったという。

 一方、家康の支援を受けた遠山利景は東美濃に侵攻した。明知城を守っていた長可の家臣を殺害し、明知城を奪還すると小牧城の家康に首級15を送った。これにより家康から本領安堵を得た利景は、さらに岩村城を攻めるも、これは残念ながら落とせなかった。

 こうして利景は森氏に奪われた明知城を再び取り返したのだった。

 

 

犬山城(国宝)