遠山利景 ⑩

 

「甲斐国史解」

 

四 秀隆虐殺を働き国人に殺される

 

 『秀隆一に鎮吉(又重能に作る)といい、伊勢の人なり。先に任ぜらて肥前守たり。この時当国(河内領を除きて)を領し、古府に居て国事を執る。然れども常に信長の威を籍り、且つ自己の勇を恃み、暴虐至らざるなかりしかば、国人大に之を憎む。六月本能寺の変あり国人将に叛せんとするに及び、家康本多信俊を遣わし、秀隆を佐けてその郡邑を鎮撫す。後秀隆故ありて信俊を殺す。是に於いて国人一時に蜂起し、遂に之を古府の岩窪に攻殺す。實に六月十五日なり。』

 

 

 武田家を滅ぼした信長は甲斐の国人衆を徹底的に殺戮し、武田氏と所縁のある寺社を焼き払った。このことを甲斐の人々が恨んでいないはずがない。信長亡き後の河尻秀隆の甲州支配は、本人が思っている以上に脆弱であったのだ。

 一揆が頻発する甲斐に家康は支援と称して本多忠政(信俊)を派遣した。家康は穴山梅雪の遺領に安堵状を出すなど明白に甲斐に干渉し始めていた。忠政は秀隆に畿内に戻るように説得したが、これを家康の甲斐侵略と捉えた秀隆は、忠政を切り殺してしまう。家康は忠政の家臣や武田遺臣を集め、秀隆を襲撃させた。秀隆は岩窪で武田家遺臣・三井弥一郎によって殺害された。国主なき地となった甲斐・信濃では徳川・北条・上杉による争奪戦が始まる。世にいう所の天正壬午の乱である。

 多くの武田遺臣を抱えていた家康は、依田信蕃に信濃調略を命ずると、信蕃は武田遺臣を吸収しながら北上し、本領・春日城に入る頃には、その数3000に達していた。

 一方、北条氏は甲斐国都留に侵攻し岩殿城を攻略した。北条氏直は神流川の戦い滝川一益を退け、上野国南部の支配を確立すると、さら信濃・甲斐侵攻を図った。家康は危機感を以て大久保忠世、石川康道、本多広孝を甲斐に派遣、忠世を信州惣奉行とした。また信濃国小県の真田昌幸は上野の沼田城を回復、上杉・北条・徳川をけん制しつつ、独自の動きをしていた。

 北条氏忠は3万5000の兵力で御坂峠を越えて本格的に甲斐に侵攻しようとした。だが、徳川家重臣・鳥居元忠が上黒駒において僅か8000人の兵を以てこれを防いだ。(黒駒合戦

 徳川家の家臣となった依田信蕃の働きは目覚ましく信州諸将は瞬く間に依田のもとに集まった。これに反抗した大井行吉は岩尾城に籠り信蕃を迎え撃った。ところが信蕃は岩尾城攻めで不運にも落命してしまう。これを惜しんだ家康はその遺児に「康」の字と「松平姓」を与え、松平(依田)康国として小諸城を与えた。

 一方、越後の上杉家は森長可が逃亡した後の川中島4郡を支配すると、真田昌幸と組んで北上する徳川・北条に対抗した。家康は、上野国を北条家に譲ることで、北条家に徳川家の甲斐・信濃支配を認めさせた。しかし真田家は信濃国小県と共に上野国沼田をも支配していた。これが後に徳川家と真田家との間で起きた上田合戦の原因となった。

 

 

上田城